全国の大名が参勤交代で江戸参府の際、江戸城に入城するのは正門である大手門から。まずは大手門でから厳しい入城チェックが始まりますが、往時をイメージしながら、江戸城本丸の表御殿へと登城し、有名な松之大廊下を歩き、天守台にも上ってみましょう。この登城ルート、現在は全コースが皇居東御苑内です。では、出発!
スタートは江戸城の正面玄関である大手門
江戸城を近世の城郭として整備したのは、築城の名手として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)。
1603(慶長8)年、徳川家康が江戸開府して以降は天下普請(てんかぶしん)による江戸城の拡張に着手。城内に残る石垣の大部分は、天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたもの。ただし、登城ルートの巨岩などは、瀬戸内から運ばれています。
登城ルートには、とくに隙間なく美しく積まれた巨岩が配されていますが、これも登城する大名の目を意識してのこと。
藤堂高虎が陣頭指揮を執った石垣もあるのです。
あまりにきれいに積まれた石垣から、再建と思う人も多いのですが、修復されているものの、基本は江戸時代の石積み、あるいはその復元ということを留意に、大手橋を渡って入城しましょう。かいもーん!
大手門
その玄関口の門が大手門です。江戸城は江戸幕府が全国の諸大名に命令した天下普請で築城されていますが、大手門も城門の内側にL字形の城壁を設け、高麗門(こうらいもん)、渡櫓門(わたりやぐらもん)2つの門からなる枡形門です。
大手門から本丸を結ぶ道が大手道で、正規な登城ルートのこと。大手門からは大手道を歩きます。
同心番所
まず最初の厳しい関門です。大名はフリーパスですが、お供の人はここで厳しいチェックを受けます。
現在、同心番所は、この先の大手三の門跡の枡形に移されていますが、往時は大手門をくぐった先にありました。
ここでチェックを受けて、下乗橋を渡ると大手三の門です。
もし、あなたが大名であろうとも、徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)の藩主でなければ、この先に進むには駕籠(かご)を下りる必要があります。
大手三の門
下乗橋を渡ったと思ったら、すぐに大手三の門が待ち構えています。
ここも堅牢な枡形門で、鉄砲や矢を持った守備隊が警備していました。
百人番所
幕府に忠誠を誓った強者(つわもの)が詰める番所です。伊賀組、甲賀組、二十五騎組、根来組からなり、日夜鉄砲の訓練に励んでいます。あの有名な伊賀組はなんとあの服部半蔵がリーダー! しかも危急の際に将軍が江戸城を脱出して、甲府城へと逃げるルートも確保していたのです。
隅々まで抜け目ない、徳川幕府ですなあ。
中之門
道はここでまた屈曲して、中之門へ。気持ち的にもちょうど真ん中くらいでしょうか。
江戸城の中でもこのあたりが最大級の巨石で、美しく積まれている点にも注目を。瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩が積まれています。
大番所
大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていた番所です。
ここが、江戸城本丸へ通じる大手道、最後の番所となります。
中雀門
両側に迫る石垣、見上げると2つの櫓(残念ながら現存しません)という威圧的な坂道を上ると本丸の玄関口である中雀門です。
江戸城唯一の真鍮(しんちゅう)の飾りがついていたという門も今では石垣を残すのみです。
江戸城本丸(表御殿)
中雀門をくぐると江戸城本丸です。往時には表御殿、中奥、大奥が並び、江戸時代初頭の50年間には、日本一の規模を誇った天守も建っていましたが、今では芝生の広がる高台になっています。
松之大廊下
松之大廊下は、本丸表御殿のなかにあります。現在は芝地の横にその跡を示す碑が立つだけです。
映画などで、片側が庭となったシーンが多いのですが、表御殿の図面からは、庭になっていないようです。
廊下といえどちゃんと畳敷きでした。
大奥
大名といえど、ここは基本、立ち入りができません。将軍もわざわざ鈴を鳴らして大奥に合図を送って、長い廊下で渡ったのです。
天守
実は江戸城に天守があったのはわずかに50年ほど。
江戸時代(近世)には、実は天守は無用の長物と化していました。
なぜなら、政庁機能は御殿で担っており、実戦の可能性がなければ、単なる展望台として、あるいは権威を示すシンボルくらいにしかなりません。