江戸前という言葉で、今では言葉も実態も絶滅危惧種となっているのが江戸前鰻。実は江戸前という言葉は、この江戸前鰻がルーツで、後に中埜又左衛門が酒粕から酢を造り出して、寿司へと転じたのが歴史的な推移なのです。江戸前の天然ウナギとはいったいどこで穫れたのでしょう?
平賀源内考案の「土用の丑」が江戸市中に浸透

平賀源内考案のウナギのセールス策と伝わる「土用の丑」が江戸市中に普及し、江戸時代半ばには「江戸前とはウナギのこと」というのが常識に。
この土用の丑の風習は、安永・天明の頃(1772年〜1789年)なので、夏に売れ行きが不振となる鰻屋に頼まれて平賀源内が「本日丑の日」という看板を掲げるというアイデアを出したということが真実なら、それ以前から江戸前鰻は有名だったことがわかります。
江戸の庶民にも愛されたウナギが穫れたのは、大川(今の隅田川)河口付近の砂州。
大川では、浅草海苔も産していたので、文字通りこの隅田川河口こそが江戸前ということに。
安永4年(1775年)刊の『物類称呼』に、「江戸にては浅草川深川辺の産を江戸前とよびて賞す。他所より出すを旅うなぎと云」と記されているので、江戸前鰻に関しては浅草周辺の大川、そして河口部の深川周辺で産するものに限定されていたことがわかります。
江戸前「鰻蒲焼」は、活鰻を割いて串打ちにし、白焼きにしてからさらに蒸して余分な脂を抜き、仕上げにタレをつけて焼いたもの。
江戸市中に店を構えた鰻屋が誕生したのは天明年間(1781年〜1789年)なので、土用の丑の創始とほぼ重なっています。
江戸時代に数多く出版された料理本で、ウナギを蒲焼にする料理法が登場するのは、天明5年(1785年)刊行の『万宝料理秘密箱』(まんぼうりょうりひみつばこ)なので、「土用の丑」が一般化とともに蒲焼がポピュラーになり、ウナギを美味しく味わうようになったのだと推測できます。
浅草や品川宿で鰻屋が誕生し、隆盛!

古典落語の『居残り左平次』は、東海道・品川宿の遊郭で無銭飲食をした貧乏長屋の住人・佐平次が、勘定を払わずに店に居残り、男衆として働き始めるというストーリーですが、そのなかに「荒井屋の蒲焼をとってくれ」という下りがあります。
当時、品川宿では品川沖で穫れるウナギを使った蒲焼が名物料理だったのです。
品川宿は厳密にいえばすでに江戸の外ですが、海苔を含めて、江戸前と称されていたのです。
今も旧品川宿界隈には、埼玉県の浦和同様に鰻屋が多いのは、江戸時代からの歴史です。
浅草に文化・文政年間(1804年~1830年)創業の「前川」、文久元年(1861年)創業の「色川」(いろかわ)など、鰻料理の老舗、名店が多いのは、江戸前鰻の歴史を反映してのこと。
江戸前を知り、それを語るためにもぜひ一度、浅草の老舗で鰻料理を味わいたいものですが、当然、ウナギは江戸前ではありません。
戦前は、多摩川、荒川、江戸川水系などはもちろん、東京湾で300tもの水揚げがあり、文字通り天然のニホンウナギの江戸前鰻を味わうことができましたが、今では幻の天然ウナギになっています。
アナゴもかつては品川沖、羽田沖の浅場で穫れ、江戸前の金穴子(腹の部分が金色に光る)として珍重されましたが、それも昔話に。
羽田空港などの埋め立て、海ほたるの完成などで漁場が狭まり、さらにはヘドロ臭さも有することで、漁業としては成り立たなくなったのです。
現在では木更津や富津あたりで産する東京湾のアナゴなども江戸前ということがありますが、それは明治以降の拡大解釈。
都市化が進み、江戸時代以降に埋立地が増えた江戸湾奥の漁獲高が減少、それに代わっての漁場が求められたことで、江戸前の広域化が進んだのです。
その意味では、海のきれいな木更津、富津あたりで揚がる天然物のウナギ、アナゴ(マアナゴ)は江戸前、少なくとも「東京前」と呼んでも差し支えないのかもしれません。
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