江戸城天守台(皇居東御苑)

江戸城本丸北隅にあった天守(天守閣)は、東西約41m、南北約45m、高さ11mの天守台に建てられていました。日本最高だったという高さ51mの天守を支えた江戸城天守台は黒田長政が築造を担当。石垣は、南部、津軽の二候が築いたとされています。現在は、皇居東御苑内に修復、保存され、天守台の上に登ることもできます。

江戸時代初めには日本最大の天守がそびえていた!

寛永度天守の描かれた江戸城の絵図

天守台は1606(慶長11)年に完成し、翌年五層の天守(慶長天守閣)が大手門とともに完成しています。
家康時代の慶長天守台・天守閣は現在の天守台遺構の南側、富士見多聞のあたりに位置していました。
築城担当は、黒田官兵衛の子・黒田長政です。

1622年(元和8)年、2代将軍・徳川秀忠は、本丸拡張工事を実施。
天守台・御殿を修築し、元和期天下普請の天守閣を建設します。本丸改造の際に、慶長の天守を撤去し、新しく天守台を築いて、その上に家康時代よりも立派な天守を建てたのです。
家康没後、数年を経て徳川幕府が無事に安泰で、父・家康を超える天守を築こうと考えたのかもしれません。

さらに1637(寛永14)年、3代将軍・徳川家光は天守台・御殿を修築し、翌年には「寛永度の天守」が完成します。
現存する天守台は、その寛永期天下普請の遺構がベースになっています。
寛永の天守は、基本的には元和の天守台に建てたもので、『江戸図屏風』などによれば屋根には金鯱をのせた5層6階天守だったことがわかります。
「建地割図」によれば、天守の高さは45m、天守台の高さは14m、地上からの高さは58m、現在のビルに直せば20階建てという高層建築でした。
(豊臣秀吉の大坂城天守は高さ30m、国宝・姫路城天守が31mなので、3倍ほどの規模・容積があったことがわかります)

往時にはこんな巨大な天守がそびえていました

天守があったのは、わずか50年間だけ!

1657(明暦3)年に起こった「明暦の大火」(振り袖火事)の飛び火で本丸、二の丸、三の丸はほぼ全焼。
その後、江戸城の天守は泰平の世でもあり、経済的な理由もあって再建されることはありませんでした。

1658(明暦4)年、加賀藩4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)の普請(ふしん=建設)で高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。
これが現在残る天守台となっています。
加賀藩・前田家の居城となる金沢城は「石垣のミュージアム」と呼ばれるほどに石垣に力を入れた城ですが、この天守台も、よく見ると、石垣上部のほうが石が小さくなるなど、遠近法を巧みに取り入れて、「実際よりも高く見える仕掛け」に。
しかも四角い石を整然と積み重ねるだけではリズムがないということで、わざとそれを崩してリズム感を出してもいるのです(NHK『ブラタモリ』でも、この2点が注目されていました)。

合戦のない近世の城郭にとっての天守は、すでに無用の長物と化していました。
政庁としての機能は、御殿が果たし、実際に将軍が天守に足を踏み入れる機会はほとんどありません。

4代将軍・徳川綱吉の叔父、陸奥会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき/家康の孫)は、「天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきである」と提言。
以降の再建はありませんでした。
つまり、徳川幕府にとって、政権は安定し、天守は単なる「展望台」で、シンボルとしての存在ですらなかったことになります。
「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)

以降は、本丸の富士見櫓が実質の天守として扱われ、諸藩でも幕府に対しての遠慮から積極的な天守の再建は行なわれないようになり、再建しても「御三階櫓」と称するようになりました。

明治時代には天文台が置かれたことも

明治15年には、堅い基盤の石垣ということで天文台も設置され、日本の経度(東経)の起点にもなった時期がありました。
三鷹市、国立天文台三鷹キャンパスにあるレプソルド子午儀室(子午儀資料館)に保管されるレプソルド子午儀(大子午儀)は、東京天文台が麻布にあった時代に、時刻の決定に使用され、江戸城・天守台で、号砲を使って時を告げていました。

さらに明治35年には陸地測量部により三角点(三等三角点「本丸」)が設置されました。
「旧天守台ノ右方ノ石段ヲ上リタル処ノ最大ナル花崗ヲ撰ビ十字ヲ彫刻シ三等三角點 陸地測量部ト記シ且蓋石ヲ以テ蔽ヒ以テ標石ニ代用ス故ニ盤石ナシ」(『点の記』)
残念ながら近づくことはできません。

皇居東御苑に現存する天守台の規模は、東西約41m、南北約45m、高さ11m。御影石(花崗岩)でできています。
天守台石垣の東南側にはかつかに焼跡が残っていますが、これは本丸御殿を焼失した1863(文久3)年の大火によるもの。

よく見ると石垣に焼け跡が
木造で江戸城天守を再建!?
NPO法人「江戸城天守を再建する会」がつくられて、天守再建の機運も盛り上がりつつあります。
当時の「建地割図」(設計図)をもとに木造で、おうじなように「江戸城寛永度の天守」を復原しようという、夢のようなプロジェクトです。
名古屋城にも同じような動きがありますが、「木造天守再建大ブーム」を予感させるムーブメントが各地で起きています。



 

江戸城天守台(皇居東御苑)
名称 江戸城天守台(皇居東御苑)/えどじょうてんしゅだい(こうきょひがしぎょえん)
所在地 東京都千代田区千代田1-1
関連HP 宮内庁公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩10分。東京メトロ東西線・都営三田線大手町駅から13分。JR東京駅から徒歩20分
ドライブで 首都高速代官町ランプから約400mで北の丸公園第1駐車場、徒歩5分で北詰橋門
駐車場 無/北の丸駐車場第1駐車場(145台・有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 宮内庁 TEL:03-3213-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
国立天文台・レプソルド子午儀室(子午儀資料館)

国立天文台・レプソルド子午儀室(子午儀資料館)

2022年3月16日
 

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