聖橋

聖橋

東京都千代田区神田駿河台4丁目と文京区湯島1丁目の間を流れる神田川に架る橋が、聖橋(ひじりばし)。優美なコンクリートアーチ橋は、関東大震災後に架橋された復興院(後の復興局)の震災復興橋梁のひとつで、昭和2年の完成。御茶ノ水のシンボルは、土木学会選奨土木遺産にも認定。

「芸術としての建築」を希求した山田守のデザイン

聖橋のデザインはモダニズム建築を実践し、永代橋、萬代橋(新潟市)にも関わった山田守(やまだまもる)。
復興橋梁として内務省が設計、山田守がデザインに関与しているのですが、当時弱冠33歳の建築家だった山田守(日本初の近代建築運動「分離派建築会」のメンバーで、「芸術としての建築」を希求)の色彩が最も強く表れたものとして有名です。
橋名は公募によるもので、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶことから聖橋と命名されています。

聖橋は、外堀を走るJR中央線・御茶ノ水駅の聖橋口側に架かっていますが、一帯はもともと神田山という台地で、元和6年(1620年)、徳川秀忠の命を受け、伊達政宗(だてまさむね)が工事を担当して山を切り開き、仙台濠と称する濠を築き、さらに万治3年(1660年)、仙台藩4代藩主・伊達綱村が拡幅した人工の渓谷。
下流側に昌平橋が架かっていましたが、峡谷部分に橋はありませんでした。

御茶ノ水駅も当初は御茶ノ水橋の上流側にありましたが、中央線の複々線化工事などを受けて、関東大震災後に現在の聖橋と御茶ノ水橋の間に移設されています。
昭和7年7月1日、御茶ノ水駅に総武本線の電車が乗り入れを開始、さらに昭和8年9月15日に御茶ノ水 〜飯田町間の複々線化工事が完成して中央線急行電車(現在の中央線快速)が運転を開始し、現在の風景が生まれています。

地下鉄丸ノ内線の池袋駅(当初は仮駅)〜 御茶ノ水駅間開業は、昭和29年1月20日。
その後、聖橋と、その下、神田川(神田川橋梁)を渡る丸ノ内線は、乗り物絵本の代表的な構図となっていました。

聖橋
聖橋と東京医科歯科大学歯学部附属病院
聖橋
名称 聖橋/ひじりばし
所在地 東京都千代田区神田駿河台4丁目~文京区湯島1丁目
関連HP 千代田区観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR・東京メトロ御茶ノ水駅からすぐ。東京メトロ新御茶ノ水駅から徒歩5分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

昌平橋

神田川に架かる橋。江戸時代には上流の水道橋まで橋はなく、駿河台と本郷台は深い峡谷だったため、この橋は神田川を渡る重要な橋になっていました。現在の橋は大正時代架橋のコンクリートアーチ橋。照明なども往時のままに復元され、千代田区景観まちづくり重

神田川

神田川

東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池を源流に、両国橋脇の柳橋で隅田川に合流する一級河川が、神田川。かぐや姫の『神田川』はフォークソングの代表曲としても知られますが、御茶の水周辺が舞台ではなく、東中野(中野区)あたりだといわれています。

神田川橋梁

総武本線が神田川をまたぐ部分に架けられた鉄道橋。昭和7年、関東大震災からの復興という目的もあって、総武本線が両国駅から御茶ノ水駅まで延伸する際に架けられた橋。「ラーメン橋脚」が使用されていることで有名で、昌平橋交差点を越える松住町架道橋と連

神田川・お茶の水分水路

神田川・お茶の水分水路

東京都文京区、江戸城の外堀として開削された神田川ですが、JR水道橋駅の東側から下流の昌平橋までの間(昌平橋下流~水道橋下流、1.3km)、神田川に沿って文京区側(北側)の地中を流れるのが、神田川・お茶の水分水路。取水口側にはお茶の水分水路碑

北斎&広重 浮世絵に描かれた湯島聖堂・神田川

御茶ノ水駅から、ニコライ堂と湯島聖堂、2つの聖堂を結ぶ聖橋を渡ると、湯島聖堂。御茶ノ水と湯島は隣接していたことに改めて気づきますが、そんな湯島の端に建つのが、江戸幕府が昌平坂学問所を設置した、湯島聖堂です。脇を流れる神田川、見事な峡谷をつく

聖橋

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