8代将軍・徳川吉宗は幕府財政の改善のため、享保元年(1716年)に財政改革に乗り出します。これが有名な享保の改革ですが、享保15年(1730年)、それまで無許可で行なわれていた寺社の富くじ(「富籤」、「富突」)を、幕府の公認とし、江戸市中でもっとも隆盛した寺社3ヶ所の富くじが、「江戸の三富」と称されたのです。
「富を突く」のが「富突」の名の由来

富くじのルーツは江戸ではなく、摂津国・箕面(現・大阪府箕面市)の瀧安寺で行なわれた『箕面富』、『富会』(とみえ)で遅くとも戦国時代には行なわれていたことがわかっています。
これは、瀧安寺に初詣に出かけた人が、自分の名前を書いた木札を唐櫃(からびつ)の中に入れ、正月7日に寺僧が錐(きり)で突き、木札に書かれた当選者に「福運守り」を授けたもの。
さほど宝くじ的、興行的な色彩はありませんでした。
江戸時代初期には、京都において百人講などと称して富くじ的なこと(多人数で金を出し合って当たりを定める私製のくじ)が行なわれたため、「博奕がましき儀」として禁止されています。
江戸市中でも富くじ的なことは行なわれたため、元禄5年(1692年)、徳川綱吉は、寺社などの修繕費用を集める目的で行なわれた富突講(とみつきこう)、二百人講を禁止し、取り締まっています。
幕府財政はかなり窮乏していたので、寺社に限って修復費用調達のための富くじの発売を許可することとし、徳川綱吉は江戸・谷中の感應寺(現・天王寺/東京都台東区谷中6丁目)の「富突」を初めて公認しています。
「富突」の名は、箱の中に番号付きの木札(富駒)を入れ、錐で突き刺して当選番号を決めたため「富を突く」ことで付いた名前です。
瀧泉寺、湯島天神、感応寺(現・天王寺)が「江戸の三富」

では、なぜ徳川吉宗は、富くじを公認したのでしょう。
徳川吉宗は、享保15年(1730年)、京都・仁和寺(にんなじ)の門跡宅館(皇族や公家が出家して住職を務めた門主の居宅)の修繕費用を捻出するため、江戸音羽の護国寺境内での富くじを公認します。
徳川幕府で寺社を管理するのを任されていたのは寺社奉行ですが、享保の改革時には大幅な予算不足で、修繕費用などは各自社で賄わせようという方針に転換したのです。
幕府公認、天下御免の富くじということで御免富(ごめんとみ)とも呼ばれましたが、その後、江戸市中の数多くの寺社が御免富を創始。
目黒・瀧泉寺(目黒不動尊)、湯島天満宮(湯島天神)、谷中・感応寺(現・天王寺)は「江戸の三富」と呼ばれるほど盛んとなったのです。
江戸では、牛込・寶泉寺(新宿区西早稲田)、芝・増上寺などでも行なわれその数は30ヶ所という説もあります。
現在の宝くじのようなシステムで、高額当選者には冥加(みょうが)として若干を奉納させ、売上額から当選者に渡す「褒美金」と興行費用とを差し引いた残高が興行主の収入となる仕組みです。
くじの価格は1朱(1両の分16の1)から1分(1両の4分の1)で、当たりは当初100両でしが、後には1等「突き留め」が1000両、2等「二番富」が500両と、高額になりました。
その後、富くじは、「富籤」、「富突」、「突富」、「富」などと呼ばれて隆盛しますが、江戸時代後期の天保13年(1842年)、いわゆる「天保の改革」で、世上の風紀に関わるとして、水野忠邦が突富興行を一切差止して途絶したのです。
復活したのは第二次世界大戦末期の昭和20年7月16日のこと。
軍事費の調達をはかるため、1枚10円で1等10万円が当たる「勝札」を発売。
当時の銀行員の初任給は60円なので1枚あたりはかなりの高額です。
抽選日の前に終戦となったため、皮肉にも負札とも称されています。
それでも、これが戦後の宝くじのルーツとなり、戦災によって荒廃した地方自治体の復興資金調達を図るため、昭和21年12月に地方宝くじ第1号「福井県復興宝籤」(別名「ふくふく籤」)が登場しています。
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