「地下鉄の父」早川徳次とは!?

地下鉄の父 早川徳次像

日本最初の地下鉄は、昭和2年12月30日開業の東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)・浅草駅~上野駅間(2.2km)。その地下鉄建設に尽力し、「地下鉄の父」と称されているのが、早川徳次(はやかわのりつぐ)です。大正3年、ロンドン視察で目にした地下鉄を、東京にも導入しようと思い立ったのです。

東洋初の地下鉄は早川徳次の尽力で誕生

東京地下鉄道の起工式
起工式の記念写真、最前列列右端がルドルフ・ブリスケ、その左が早川徳次

早川徳次は、明治14年、山梨県東八代郡御代咲村(みよさきむら/現・笛吹市一宮町東新居)に生誕。
早稲田大学在学中に後藤新平(ごとうしんぺい/明治31年、台湾総督府民政長官、明治39年から南満洲鉄道の総裁)の書生となり、卒業後、後藤新平が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社。
後藤の満鉄辞職とともに鉄道院に転職しています。
鉄道院時代には、同郷の根津嘉一郎(ねづかいちろう/根津財閥の創始者、明治38年、東武鉄道の社長に就任)と知り合い、明治44年、佐野鉄道(現・東武佐野線)の立て直しに成功しています。
さらに明治45年、根津に依頼されて高野登山鉄道(現・南海高野線)の黒字化にも成功しています。

鉄道再建に辣腕を発揮した早川徳次は、大正3年8月、ヨーロッパの鉄道と港湾事情の視察に出かけます。
当時、石炭など物資、産物の輸送で鉄道と港湾・舟運は切っても切れない関係があったのです。

訪欧先のロンドンで目撃した地下鉄に衝撃を受け、地下鉄は東京のような大都市の交通に不可欠であることを見抜きます。
大正5年に帰国すると、根津嘉一郎の協力を得て大正8年には地下鉄道敷設免許を取得しますが、大正12年に関東大震災が勃発。

それでも2年後の大正14年には帝都復興をかけて浅草駅〜上野駅間の地下鉄道建設をスタートさせています。

なぜ、浅草駅〜上野駅を最初に、さらに銀座、新橋への延伸を計画したかといえば、早川本人が街頭に立ち、交通量調査をした結果、もっとも必要とされる区間だと判明したからです。

地下鉄道の設計は日本人では無理ということで、ドイツ人技師のルドルフ・ブリスケ(Rudolf Briske)が担当。

地下鉄の父 早川徳次

デパート近くに鉄道を通し、三越前駅を誕生させる

東京地下鉄道1000形
東京地下鉄道1000形電車1001号(国の重要文化財)

昭和2年、日本初の地下鉄浅草駅〜上野駅が開業。
当時は東洋初として大きな話題を呼び起こしました。

昭和5年、上野駅〜万世橋駅(仮駅)間が開業、昭和6年に神田駅まで延伸、昭和7年、京橋駅まで延伸と徐々に工事は進展し、昭和9年には新橋駅まで延伸しています。

駅の出入口に駅ビルを建てたのは、阪神急行電鉄(阪急)の小林一三を真似て。
梅田駅を駅ビルにし、デパートを営業するなど、当時はまだ目新しかった手法です。

早川徳次はそれだけではなく、デパート近くに鉄道を通し、デパートへの入口を作ることで当時は大人気だったデパートから建設資金の一部を調達するなど、斬新な路線計画も展開しています。
銀座線・三越前駅は昭和7年4月29日、東京地下鉄道が開業した駅ですが、その建設費の一部を三越、三井財閥が負担、現代のネーミングライツにも通じる手法だったことがよくわかります。
三越前駅は、日本初の企業名を冠した駅で、しかもエスカレーターが初めて設置された駅にもなっています。

早川徳次は、昭和15年、東京地下鉄道の社長に就任するも東京高速鉄道(新橋まで完成、五島慶太ら経営)との直通運転問題での争いからすぐに退き、帝都高速度交通営団発足翌年の昭和17年に没しています。

「地下鉄の父 早川徳次像」(TOPの画像) は、東京メトロ・銀座駅の構内、メトロ銀座ギャラリーの近くにあるので、銀座駅を利用の際はぜひお立ち寄りを。

東京地下鉄道1000形
日本初の地下鉄車両1001号車
「地下鉄の父」早川徳次とは!?
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地下鉄博物館

東京メトロ東西線葛西駅の高架下にある地下鉄の博物館。東京地下鉄株式会社(東京メトロ)の関連公益法人である公益財団法人メトロ文化財団が運営するミュージアムで、略称「ちかはく」。昭和61年に開館し、平成15年にリニューアルオープン。展示する東京

地下鉄の父 早川徳次像