本妙寺・遠山景元の墓

本妙寺・遠山景元の墓

東京都豊島区巣鴨5丁目、染井霊園西側にある法華宗の東京別院が、本妙寺。境内には「遠山の金さん」として知られる遠山景元の墓があり、東京都の旧跡に指定されています。遠山景元は、北町奉行、南町奉行という両奉行を務めた唯一の旗本で、安政2年2月29日(1855年4月15日)に没。

「遠山の金さん」こと遠山景元の墓は本妙寺に

本妙寺・遠山景元の墓
遠山金四郎こと、遠山景元の墓

境内には久世大和守の墓所、本因坊歴代の墓、千葉周作の墓、明暦の大火供養塔などもあります。
明暦の大火供養塔があるのは、明暦3年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)の火元は本妙寺という説があるから(近隣の老中・阿倍忠秋の屋敷が火元で、老中の屋敷が火元ではまずいということで、本妙寺が火元であることを引き受けたという説も)。

寛永13年(1636年)に本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)に移っていたので、明暦の大火(振袖火事)の際には本郷丸山に寺を構えていました。
塔頭6院(円立院、本行院、本蔵院、本立院、円行院、感應院)を廃して巣鴨に移ったのは明治41年のこと。

「遠山の金さん」こと遠山景元(とおやまかげもと)は、江戸時代後期の天保11年3月2日(1840年4月4日)〜天保14年2月24日(1843年3月24日)の間、27代目の北町奉行を務めていますが、天保の改革で町民への規制を強める老中・水野忠邦、目付の鳥居耀蔵と対立し、目付・鳥居耀蔵の策略で罷免。
その後、天保の改革の失敗を受けて、弘化2年3月15日(1845年4月21日)、33代の南町奉行に返り咲き、幕末の嘉永5年3月24日(1852年5月12日)まで南町奉行を務めています。
辞任後、隠居し、家督を嫡男・遠山景纂(とおやまかげつぐ/通称は金四郎)に譲り、安政2年2月29日(1855年4月15日)に没。
当時、本郷丸山にあった本妙寺に埋葬されています。

嫡男・遠山景纂も父・景元の死の半年後の安政2年8月27日(1855年10月7日)に死去し、同じ本妙寺に埋葬。

遠山景元の戒名は帰雲院殿従五位下前金吾校尉松僲日亨大居士。
遠山景纂の戒名は敦行院殿誠信景纂日勇大居士。

本妙寺・遠山景元の墓
名称 本妙寺・遠山景元の墓/ほんみょうじ・とうやまかげもとのはか
所在地 東京都豊島区巣鴨5-35−6
関連HP 本妙寺公式ホームページ
電車・バスで JR・都営地下鉄巣鴨駅から徒歩15分、さくらトラム新庚申塚駅から徒歩5分
駐車場 境内駐車場(12台/無料)、彼岸、施餓鬼期間中は利用不可
問い合わせ 本妙寺 TEL:03-3917-1558
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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本妙寺・明暦大火供養塔

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