徳川慶喜終焉の地

徳川慶喜終焉の地

東京都文京区春日2丁目、新坂の横が徳川慶喜終焉の地(とくがわよしのぶしゅうえんのち)。徳川幕府最後の将軍となった15代・徳川慶喜は、江戸城開城後、駿府(静岡市)で暮らしていましたが、明治30年に巣鴨、さらに小石川区小日向(当時)に移転し、この地が終焉の地となっています。

徳川慶喜は大正2年11月22日、東京で死没

徳川慶喜終焉の地

徳川慶喜のお目付け役だった勝海舟が老いて権勢を振るうこともなくなり、末の息子も学習院に通っていたこと、東京の方が名医が多いなどの理由で、巣鴨に居を構えますが、日本鉄道の豊島線(現・JR山手線)の巣鴨停車場(明治36年4月1日開業)の建設工事の騒音を避けるために、明治34年12月に小石川区小日向第六天町54番地(現・文京区春日2-8-9、国際仏教学大学院大学キャンパス)、今井坂上の高台の屋敷に転居しています。

直後の明治35年6月3日には公爵になり、貴族院議員に。
徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、国立銀行、日本鉄道、浅野セメント、日本郵船などの株を保有して、悠々自適な老後を過ごしています。
明治43年12月8日、七男・徳川慶久(とくがわよしひさ)に家督と爵位を譲って隠居。
大正元年にダイムラーの自動車を入手して乗り回すなどの優雅な暮らしを楽しみ、大正2年11月22日、風邪をこじらせて肺炎となり、76歳で没しています。

徳川慶喜が、カメラを趣味に、東京でハイカラな生活を送りながら、大正時代の到来まで見届けたことはあまり知られていません。

墓所は谷中、寛永寺の霊園。
徳川慶喜邸の跡地は、国際仏教学大学院大学になっていいます。

徳川慶喜終焉の地
名称 徳川慶喜終焉の地/とくがわよしのぶしゅうへんのち
所在地 東京都文京区春日2-8-9
関連HP 文京区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ茗荷谷駅、江戸川橋駅から徒歩15分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 文京区アカデミー推進課観光担当 TEL:03-5803-1174/FAX:03-5803-1369
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
徳川慶喜の墓

徳川慶喜の墓

東京都台東区谷中7丁目、都営谷中霊園に囲まれた寛永寺墓地にあるのが、徳川慶喜の墓。神式で埋葬されたため、円墳状の墓で、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜とその妻・美賀子の墓が並んでいます。現在の谷中霊園一帯は江戸時代には、感応寺(現・天王寺

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