東京都千代田区有楽町2丁目、有楽町駅から徒歩1分の中央口前広場にあるのが、南町奉行所跡。大岡忠相(おおおかただすけ)、そして南北の奉行職を唯一務めた幕末の名奉行「遠山の金さん」こと遠山景元(とおやまかげもと)が務めていた場所です。
数寄屋橋御門内あった南町奉行所の跡
寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつが町奉行。
町奉行は、江戸の町の行政・司法を担当する役職で、北町奉行所と南町奉行所に分かれていました。
南北に管轄を分けて配されたというわけではなく、月番制で担当するという仕組みで、北町奉行所は呉服橋御門内、現在の東京駅日本橋口に建っていました。
南町奉行所は、宝永4年(1707年)に常盤橋御門内から数寄屋橋御門内に移転し、幕末まで数寄屋橋御門内、現在の有楽町駅および東側街区一帯にありました。
平成17年の発掘調査、奉行所表門に面した下水溝、奉行所内に設けられた井戸、土蔵、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札などが出土。
中央口前広場には石組下水溝の一部が、地下広場には穴蔵(地下室)が復元展示されているほか、石材をベンチなどに転用しています。
南町奉行は、慶長9年(1604年)の初代・土屋権右衛門重成(徳川家康、秀忠に仕えた旗本)に始まり、幕末の慶応4年(1868年)の佐久間鐇五郎信義まで50人が務めています。
大岡越前守忠相は、享保2年(1717年)就任の14代目。
「遠山の金さん」で知られる遠山景元は、天保の改革を断行する水野忠邦と対立し、北町奉行職を失脚してから、改革失敗後に33代の南町奉行として返り咲いています。
第14代南町奉行が、有名な大岡越前守忠相
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支えたことで知られる大岡越前守忠相。
『大岡政談』を元にして、時代劇で名奉行として描かれる大岡忠相は、享保2年2月3日(1717年3月15日)〜 元文元年8月12日(1736年9月16日)という20年にもわたって南町奉行を務めています。
就任当初の享保3年(1718年)には町火消組合を創設、享保5年(1720年)には町火消組織を「いろは四十七組」の小組に再編成しています(後に四十八組に改変)。
土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立など、江戸の町の防火対策に尽力しています。
青木昆陽を使ってサツマイモ栽培を奨励したのも大岡忠相です。
こうした功績もあって、元文元年8月12日(1736年9月16日)、南町奉行から寺社奉行に転身しています。
江戸時代にはすでに「徳川天一坊」、「三方一両損」など『大岡政談』として大岡忠相の裁きが有名になっていますが、その多くは後世の創作で、実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみとされています。
テレビドラマでは、加藤剛が29年にわたって大岡忠相を演じたナショナル劇場『大岡越前』が有名(徳川吉宗・山口崇)。
映画では『超高速!参勤交代 リターンズ』で、大岡忠相を古田新太が、徳川吉宗を市川猿之助が演じています。
南町奉行所跡 | |
名称 | 南町奉行所跡/みなみまちぶぎょうしょあと |
所在地 | 東京都千代田区有楽町2-9-18 |
関連HP | 千代田区観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR・東京メトロ有楽町駅から徒歩1分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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