東京都大島町、伊豆大島の南端、波浮港(はぶみなと)にある明治時代に建築された旧家が旧甚の丸邸(きゅうじんのまるてい)。波浮港は、承和5年(838年)、マグマ水蒸気爆発でできた火口を掘削した天然の良港で、甚の丸邸は、網元で、踊子の里と呼ばれる一帯は波浮繁栄の中心地だった場所です。
波浮港にある網元の邸宅を保存
波浮港は、上総国植畑(現・千葉県君津市)出身の秋廣平六(秋広平六)が、寛政10年(1798年)に伊豆諸島と江戸を往来する廻船の風待ち湊として波浮湊開削の必要性を伊豆代官に訴え、幕府の事業となった波浮湊堀割工事を請負い、寛政12年(1800年)着工、享和元年(1801年)に完成。
波浮にあった爆裂火口は、元禄16年(1703年)の元禄大地震、津波で、決壊して海と繋がってはいましたが、廻船が入港するには、入口が狭かったのです。
新しく誕生する波浮村(当時は差木地村の村内で、無人でした)と、隣接する差木地村の境界を確定させ、入植が始まったのです。
甚の丸は、江戸時代後期〜昭和初期に繁栄した網元。
明治時代〜昭和初期、波浮港は遠洋漁業の中継港として栄え、昭和3年、野口雨情作詞・中山晋平作曲による佐藤千夜子の『波浮の港』が大ヒットし、観光客も急増したのです。
そんな波浮港の繁栄を今に伝えるのが旧甚の丸邸。
旧甚の丸邸の塀は、海路運ばれた大谷石(栃木県産の石材)。
石造2階建ての建物にはなまこ壁が施され、伊豆下田の影響を受けていることがよくわかります。
1階が生活空間で、2階は蚕を飼育し繭を生産していました。
踊子坂(旧港屋旅館前の坂)の石段を上りきった場所にあり、宴席が設けられると踊子を呼び、客人をもてなしたといわれています。
この踊子が、川端康成の小説『伊豆の踊子』に登場する踊子たち。
大正7年(一高入学の翌年)、川端康成が伊豆を旅した際の体験をベースに小説にしたものですが、そこに登場する踊子たちは、この波浮港の踊子。
踊子たちは下田から汽船で伊豆大島に戻っているので、『伊豆の踊子』は、正しくは「伊豆で出会った波浮の踊子」だったのです。
旧甚の丸邸 | |
名称 | 旧甚の丸邸/きゅうじんのまるてい |
所在地 | 東京都大島町波浮港18-3 |
関連HP | 東京都教育委員会公式ホームページ |
ドライブで | 元町港から約15km |
問い合わせ | 教育庁大島出張所 TEL:04992-2-4451/FAX:04992-2-3902 |
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