宇喜多秀家の墓

宇喜多秀家の墓

東京都八丈町大賀郷にあるのが豊臣政権で五大老のひとりだった宇喜多秀家の墓。備前岡山城主として備中・備前・美作57万4000石を領有する大名でしたが、関ヶ原の合戦で西軍の副大将となり、敗戦。前田利長らの懇願で、死罪を免れて、八丈島に流刑。34歳から50年を過ごして、八丈島で没しています。

八丈島に流刑後、50年間を島で生活した西軍の将

関ヶ原の合戦後、伊吹山中、京の太秦(うずまさ)に潜伏後、島津義弘を頼って薩摩国に落ち延び、垂水郷の平野屋敷(鹿児島県垂水市・宇喜多秀家潜居跡)で3年3ヶ月の潜居生活を送った後、慶長8年(1603年)、島津忠恒(義弘の子)によって駿府の家康のもとへ身柄を引き渡され、久能山(現・静岡市)に幽閉後、慶長11年(1606年)、34歳のとき、流人としてふたりの子息(長男と次男)、近侍とともに(合計13人)八丈島へ配流されました(島では髪を下ろして休福と号し、浮田を名乗っています)。

幕府も加賀藩・前田家が宇喜多秀家に対し、隔年で70俵、金子35両、衣類、雑貨、薬品の援助を受けることを認め、明治2年に赦免されるまで浮田一族に対し、物資援助が行なわれています。
また、宇喜多秀家自身も八丈島の領主・源家に招かれるなど、流人とはいえ厚遇を受けていたことがわかります。

元和2年(1616年)に刑が解かれたことを受け、前田利常から10万石を分与するという大名への復帰が提案されますが、これを断って、八丈島に留まり、明暦元年11月20日(1655年12月17日)、84歳で没しています。
西軍でもっとも大軍となる1万7000人の兵力を誇った宇喜多秀家(西軍の中心的な存在)は、公式の八丈島流人の第一号(以降、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られています)。
当時、島では天下分け目の戦いの、西軍の主人公ということで、それなりの厚遇だったことも想像できます。
温暖な気候に恵まれたためか、関ヶ原の戦いに参加した諸大名の中で、皮肉にもいちばん遅くまで生きていたのも宇喜多秀家です。

現存する宇喜多秀家の墓は、7m四方の玉石垣に囲まれた大名風の墓で、一族墓の中央に五輪塔形の墓石が立っています(墓地を囲む玉石垣の上には、「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石も)。
当初の墓石は、傍らにある南無阿弥陀仏とのみ刻まれた位牌型の墓で、現存する高さ6尺の五輪塔形は、江戸時代後期の天保12年(1841年)、八丈島在住の宇喜多一族の系譜がないことを嘆いた9代・宇喜多秀邑(うきたひでさと)の建立。
当初の墓が南無阿弥陀仏とのみ刻まれるのは、流人には戒名が許されないから。
4代・宇喜多秀親の時に戒名が許され、尊光院殿秀月久福大居士と付けられています。

命日である11月20日には、宇喜多秀家の墓地、住居跡で『宇喜多秀家鎮魂祭』を開催。
また、明治維新後、八丈島の宇喜多秀家の末裔、浮田一族は、東京・板橋にある加賀前田家下屋敷(現・板橋区立加賀公園周辺)に移住しています。

宇喜多秀家の墓
名称 宇喜多秀家の墓/うきたひでいえのはか
所在地 東京都八丈島八丈町大賀郷
関連HP 八丈島観光協会公式ホームページ
電車・バスで 八重根港から徒歩30分、八丈島空港からタクシーで5分
ドライブで 八重根港から約2km
問い合わせ 八丈島観光協会 TEL:04996-2-1377
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
宇喜多秀家と豪姫の像

宇喜多秀家と豪姫の像

東京都八丈町大賀郷、八丈島の西岸、八重根港に近い船戸鼻にある溶岩流の岩海が南原千畳岩(南原千畳敷)。整備された南原園地の南端にあるのが宇喜多秀家と豪姫の像です。平成9年、岡山城築城400年を記念して、岡山城の方角を仲睦まじく眺める宇喜多秀家

宇喜多秀家の墓

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