東京都八丈町大賀郷、八丈島の西岸、八重根港に近い船戸鼻にある溶岩流の岩海が南原千畳岩(南原千畳敷)。整備された南原園地の南端にあるのが宇喜多秀家と豪姫の像です。平成9年、岡山城築城400年を記念して、岡山城の方角を仲睦まじく眺める宇喜多秀家と正室・豪姫の座像が建立されたもの。
宇喜多秀家と息子ふたりを金沢で案じた豪姫
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、西軍の副将として関ヶ原の合戦を戦った宇喜多秀家は、伊吹山中、京の太秦(うずまさ)に潜伏後、島津義弘を頼って薩摩国に落ち延び、慶長8年(1603年)、駿府の徳川家康のもとに護送。
慶長11年(1606年)、34歳のとき、流人としてふたりの子息(長男と次男)、近侍とともに(合計13人)沖を黒潮が流れ、脱出不可能な八丈島へ配流されています。
岡山城主として、備中・備前・美作57万4000石を領有した大大名だった宇喜多秀家ですが、秀家の秀は、元服したとき秀吉からもらったもので、豊臣政権家では、前田利家などとともに五大老のひとり。
正室、豪姫は、前田利家の四女(生母は大河ドラマにもなった、まつ)で、秀吉の養女です。
豪姫の嫁ぎ先ということもあり、加賀藩・前田家は、宇喜多秀家の助命を嘆願。
願いがかなって、宇喜多秀家は、長男、次男、そして近侍らとともに(合計13人)八丈島に流刑となり、50年間を島で暮らし、明暦元年11月20日(1655年12月17日)、84歳で没しています。
豪姫は、宇喜多秀家流刑後、高台院(北政所=秀吉の正室)に仕えていましたが、洗礼を受けたのち、慶長12年(1607年)頃、金沢城下へ(墓所は金沢市の野田山墓地で、利家・まつのそばに眠っています。菩提寺は金沢の大蓮寺)。
宇喜多秀家は浮田と改称し、末裔は明治2年まで八丈島で暮らしていますが、その間、加賀藩・前田家からは隔年で白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられています。
これは、加賀藩3代藩主・前田利常(豪姫の弟)が幕府と交渉し、実現したもの。
また、明治2年に、浮田一族が島を出た際にも、加賀藩江戸下屋敷(現・板橋区立加賀公園)に移るなど、加賀藩の援助を得ているのです。
実際に、豪姫は八丈島を訪れることはなかったので、宇喜多秀家と豪姫の像はあくまでイメージ。
天下分け目の関ヶ原の合戦で、公式の島送りの第一号として八丈島に流刑になった宇喜多秀家、そして、夫とふたりの息子を島に送られ、案じながら金沢で暮らした豪姫の波乱の人生を象徴するシンボルになっているのです。
宇喜多秀家と豪姫の像 | |
名称 | 宇喜多秀家と豪姫の像/うきたひでいえとごうひめのぞう |
所在地 | 東京都八丈島八丈町大賀郷 |
関連HP | 八丈島観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 八重根港から徒歩25分、八丈島空港からタクシーで5分 |
ドライブで | 八重根港から約1.5km |
駐車場 | 8台/無料 |
問い合わせ | 八丈島観光協会 TEL:04996-2-1377 |
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