千住大橋

千住大橋

東京都足立区(北岸)と荒川区(南岸)の間を流れる隅田川に架る国道4号(日光街道)の橋が千住大橋。文禄3年(1594年)、徳川家康の関東転封に伴い、隅田川に最初に架けられた橋がこの千住大橋です。現在の旧橋(国道4号北行)は関東大震災からの帝都復興で、昭和2年架橋。現存する最古のタイドアーチ橋となっています。

知られていませんが実は鉄道併用橋として開通

千住大橋
昭和3年〜昭和43年の間は中央に都電(東京市電)が走っていました

初代の千住大橋は、徳川家康が関東代官頭・伊奈忠次(いなただつぐ=三河国幡豆郡出身で、利根川東遷工事も担当)に架橋を命じ、橋は、翌年に、現在よりも約200m上流(渡裸川の渡しがあった場所)に完成、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回架け替えられています。
現在地に架け替えられたのは、明和4年(1767年)の架替えで。
慶長9年(1604年)、五街道の整備で、奥州街道、水戸街道の街道筋にもなっています。

近代には、明治19年に二重の太鼓橋様式の木橋が架けられましたが、関東大震災で失われ、震災復興事業の一環として、昭和2年にタイドアーチ橋が架橋されています。
設計は同じ隅田川の白鬚橋(しらひげばし)、大阪・淀川の十三大橋(じゅうそうおおはし)など、多くの美しい橋を残した増田淳(ますだじゅん)。
あまり知られていませんが、増田淳設計のこの旧橋は、鉄道併用橋。
千住大橋の架橋に伴い、昭和3年7月16日、東京市電(後の都電)が千住四丁目まで延伸したのです。
鉄道併用橋としての役割は、昭和43年2月24日、千住四丁目〜三ノ輪橋間の廃止で昔語りとなっています。

昭和48年、交通量増大のため、下流側に寄り添うように新橋が築かれ、国道4号の南行(上り線)に充当しています。

千住大橋は松尾芭蕉が『奥の細道』に旅立った地で、千住大橋北詰(足立区千住橋戸町)に矢立初めの句碑が立つ大橋公園があります。
元禄2年3月27日(1689年5月16日)、芭蕉は、江戸・深川から船に乗って隅田川を北上、「千住といふ所にて船をあが」り、そこで「矢立て初めの句」として知られる「行春(ゆくはる)や 鳥啼(なき) 魚の目は泪(なみだ)」を詠んでいます。
「千住といふところで船をあがれば」と記される千住は、現在の足立区・北千住か、はたまた荒川区・南千住なのかで、両区は「旅立ちの地」を巡って長年論争を展開しています。

足立区側の北詰には、「千住大橋御上り場」の案内板も配されていますが、この「御上り場」は、徳川将軍家の鷹狩の際に、江戸湾に臨む江戸城から舟で出て隅田川を遡り、千住に着岸し、小塚原、草加、竹ノ塚などの鷹狩りや小菅御殿へ向かったもの。

ちなみに千住(北千住)は、「大江戸八百八町」の北限(荻生徂徠『政談』)。
時代劇に登場する「江戸払」(えどばらい)というと、四宿(千住・板橋・品川・内藤新宿)以内と本所・深川(町奉行支配地)には立ち入るなということになったのです。

千住大橋
名称 千住大橋/せんじゅおおはし
所在地 東京都足立区千住橋戸町〜荒川区南千住
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白鬚橋

白鬚橋

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両国橋

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厩橋

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奥の細道・矢立初めの地碑

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東京都足立区千住橋戸町、隅田川に架る千住大橋の北詰、千住大橋公園に立つのが、奥の細道・矢立初の碑(おくのほそみちやたてはじめのひ)。矢立初とは旅行記などの書き初めの意。元禄2年「弥生も末の7日」松尾芭蕉は『奥の細道』に、千住から旅立っている

素盞雄神社

素盞雄神社

都荒川区、南千住の総鎮守が素盞雄神社(すさのおじんじゃ)。延暦14年(795年)、役小角(えんのおずぬ)の弟子・黒珍が、牛頭天王(ごずてんのう=素盞雄大神の本地仏で祇園精舎の守護神)、飛鳥権現が降臨した奇岩・瑞光石(ずいこうせき)を祀って創

千住大橋

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