奥の細道・矢立初めの地碑

奥の細道・矢立初めの地碑

東京都足立区千住橋戸町、隅田川に架る千住大橋の北詰、千住大橋公園に立つのが、奥の細道・矢立初の碑(おくのほそみちやたてはじめのひ)。矢立初とは旅行記などの書き初めの意。元禄2年「弥生も末の7日」松尾芭蕉は『奥の細道』に、千住から旅立っているのです。

『奥の細道』は千住からスタート

元禄2年3月27日(1689年5月16日)、46歳になった松尾芭蕉は、曾良を伴って江戸・深川(現・江東区)から船で大川(隅田川)を遡上して『奥の細道』への旅へと出立。
『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代の過客(ひゃくだいのかかく)にして、行かふ年も又旅人也。・・・(中略)・・・ 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。『行く春や鳥啼魚の目は泪』是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし」と記されています。

『行く春や鳥啼魚の目は泪』が矢立初めの句ということで、の千住大橋の北詰にある千住大橋公園に、奥の細道矢立初めの地碑、奥の細道矢立初めの碑(『奥の細道』の冒頭を刻んだ石碑)、奥の細道の路程図が設けられ、芭蕉の足取りが説明されています。

矢立とは、筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具で、旅行記を書き始めることが矢立初めです。

この千住宿を起点に、芭蕉は、奥羽、北陸、岐阜の大垣へと600里(2400km)、およそ半年の旅に旅立ったのです。
さらに芭蕉は最終地の大垣に到着した後、伊勢の桑名へと川で下り、津、伊勢を訪れ、そして、故郷の伊賀上野へに帰郷しています。

なお、隅田川南岸の荒川区も「矢立初めの地」を主張し、南千住の素盞雄神社(すさのおじんじゃ)境内には、「行く春や鳥啼魚の目は泪」が刻まれた句碑が建立されており、南千住駅前には、句を詠む松尾芭蕉の銅像が建てられています。

奥の細道・矢立初めの地碑
名称 奥の細道・矢立初めの地碑/おくのほそみち・やたてはじめのひ
所在地 東京都足立区千住橋戸町31
関連HP 足立区観光交流協会公式ホームページ
電車・バスで 京成千住大橋駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
千住大橋

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東京都足立区(北岸)と荒川区(南岸)の間を流れる隅田川に架る国道4号(日光街道)の橋が千住大橋。文禄3年(1594年)、徳川家康の関東転封に伴い、隅田川に最初に架けられた橋がこの千住大橋です。現在の旧橋(国道4号北行)は関東大震災からの帝都

素盞雄神社・矢立初めの句碑

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東京都荒川区、日光街道沿い、南千住の総鎮守が素盞雄神社(すさのおじんじゃ)。境内にあるのが矢立初めの句碑で、元禄2年3月27日(1689年5月16日)、46歳になった松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅に千住から出発、最初の句を詠んだのがこの千住な

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採荼庵跡

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奥の細道・矢立初めの地碑

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