【知られざる東京】吉祥寺のルーツは水道橋にある!?

吉祥寺が、何で吉祥寺なのか?
どうして吉祥寺という地名が生まれたのか。
ご存知でしょうか。

吉祥寺の町は江戸時代に「振袖火事」の集団移住で誕生!

吉祥寺は、今でこそ武蔵野市東端の字名(あざめい)と駅名などに名を残すのみですが、江戸時代には吉祥寺村という小さな村でした。幕府領(天領)で、周囲には上連雀村、下連雀村、井口新田、吉祥寺村、西窪村などがある農村地帯。

この吉祥寺村、明暦3年(1657年)1月18日に起こった明暦の大火(めいれきのたいか)、さらに翌明暦4年1月の吉祥寺大火による、「集団移住」で生まれた村なのです。

明暦の大火は、本妙寺(東京都豊島区巣鴨5-35-6)の護摩の火で燃やした振袖が原因という伝説があり、「振袖火事」と呼ばれています。
江戸の町の大半を焼きつくした火事で、江戸城の天守まで焼き尽くすほどの猛火(ちなみに、この火事以降、江戸城の天守は再建されていません)。
当時、火元とされる本妙寺は、本郷丸山(現在の東京都文京区本郷5丁目)あたりに建っていました。

江戸火事図巻
↑明暦の大火を田代幸春が文化11年(1814年)に描いた『江戸火事図巻』(えどかじずかん)/江戸東京博物館蔵

みんなで神田川の源流に引っ越すぞー!の話

少し、話がややこしくなりますが、振袖火事と、吉祥寺火事で、焼けてしまった寺が諏訪山吉祥寺。
長禄2年(1458年)、江戸城を築いた太田持資(有名な太田道灌!=西日暮里に道灌山という地名も残ります)が、江戸城内に建立した名刹です。

寺伝によれば、江戸城の築城に際し和田倉(現在の東京駅丸の内側=大手町に和田倉噴水公園があります)付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得て、西の丸に創建という輝かしい歴史が!

豊臣時代となって、徳川家康の江戸入府、江戸城大改築の際に、吉祥寺は後の水道橋(現在の都立工芸高校=東京都文京区本郷1-3-9あたり)に移転しました。振袖火事の頃は、今の水道橋駅前あたりに建っていたわけです。

湯島台と駿河台の間に掘割(現在中央線が走る外堀)を築いたのはなんと、あの独眼竜政宗(伊達政宗)。
元和6年(1620年)、2代将軍・徳川秀忠の命を受けて、井の頭池を源流とする神田川をここに通したのです。

ここで、ようやく、その開削された神田川を目の前にした、吉祥寺門前の住民の話に。
現在の水道橋の北側、本郷1丁目あたり、江戸屈指の名刹、吉祥寺の門前町に暮らす人々は、二度にわたる大火で焼き出されます。

江戸時代初期の水道橋
↑江戸時代初期の水道橋。神田上水の水道橋は「吉祥寺橋」と呼ばれていました

当然、全員が失業状態ですから、門前町を束ねる長(おさ)は、
「うーん、みんなでどこかに移転しよう。一致団結して新天地を見つけよう」
と決起を促したでしょう。

実は、三鷹市の下連雀も神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の集団移住で生まれた町ですから、そういった集団移住はポピュラーなことだったのでしょう。

幕府が斡旋(あっせん)したであろう、吉祥寺門前町の住民の移転先は、神田川源流・井の頭の北側。
「目の前を流れる神田川の源頭近くに、村を起こしましょう」
なんて話が幕府からあったのでしょう。
「よっしや! みんな、新田開拓だっ!」
と意気込んで引っ越したのが、現在の吉祥寺。
新田村の名は、以前の吉祥寺門前を後世に伝えるためにあえて「吉祥寺」としたのです。

ジョージだなんて略すると、バチが当たりますぞ!

喜鶴堂『東都名所 御茶之水之図』
↑喜鶴堂『東都名所 御茶之水之図』 神田上水を渡す懸樋が万治年間(1658-1661)に架けらたというから、ちょうど集団移転の頃にはこうした光景だった

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。