蔵前橋

蔵前橋

東京台東区蔵前1丁目(西岸)と墨田区横網1丁目(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)に架る橋が蔵前橋(くらまえばし)。関東大震災後、帝都復興で国が架橋した6橋のひとつで、大正13年9月に着工、昭和2年11月26日竣工の橋。復興局が蔵前橋通り(都道放射14号線)に架橋し、現役で使われています。

帝都復興の橋には、設計者のプライドが結実!

橋長173.2m、幅員22.0m。
当時の橋梁設計は、橋桁(はしげた)の上側に道路をもってくる上路橋(じょうろきょう)が美観的に優れているとされましたが、隅田川は船舶が通航するため、上路橋では、橋桁のから川面までの高さが不足するので、わざわざ地盤を6mも嵩上げすることで上路式アーチ橋を実現しています。
見逃してしまいますが、「景観にマッチする美しい橋を」という当時の設計者の想い、土木技術者のプライドはそんなところにも反映しているのです。

現在は、東京都道315号(御徒町小岩線)、通称・蔵前橋通りが通っています。
蔵前橋は帝都復興で架橋された橋で、それ以前には下流に両国橋を眺める富士見の渡し(隅田川の渡しのひとつ)がありました(舟上から富士山が見えたのが名の由来、米蔵が付近にあったので「御蔵の渡し」とも)。
つまりは、蔵前橋が初代の橋ということに。

蔵前橋
葛飾北斎 『冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見』に描かれる富士見の渡し

黄色で塗装されるのは、幕府の御米蔵をイメージして

隅田川の橋梁群の計画・設計の中心となって活躍したのが鉄道省出身の太田圓三、田中豊ですが、蔵前橋に関しては、実際の設計は内務省復興局(帝都復興院)橋梁課・井浦亥三が担当。
下部の工事は復興局が直営施工し、上部は石川島造船所(現・IHIインフラシステム)が製作しています。

各橋のデザインについては、地形的制約や地盤条件、周囲からの景観などを勘案し、帝都の都市景観にふさわしいデザインとして個別に決定され、実際の設計も別個の設計者が担っています。

蔵前橋は帝都復興橋梁としては異色の黄色で塗装されていますが、現・両国国技館一帯3万6650坪(99ha)に幕府の御米蔵(収蔵する米は御家人などの下級武士の蔵米知行=給料として支給)があったこと偲び、籾殻(もみがら)を連想させる色を採用したため。
高欄には当時、蔵前橋の西岸に蔵前国技館があったことから力士を象ったレリーフが施されています。

ちなみに隅田川に震災復興橋梁として架けられた橋は、下流から相生橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋(うまやばし)、駒形橋、吾妻橋(あづまばし)、言問橋(ことといばし)の9橋で、被害を受けなかった新大橋を含めて「隅田川十大橋」と称されています。
このうち、帝都復興院(後に内務省復興局)が担当したのが、相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋の6橋で、ほかは東京市が担当。

蔵前橋
名称 蔵前橋/くらまえばし
所在地 東京都台東区蔵前1・2〜墨田区横網2
電車・バスで 都営地下鉄蔵前駅から徒歩7分。JR・都営地下鉄両国駅から徒歩10分
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