東京のシンボル 震災復興橋梁とは!?

震災復興橋梁

関東大震災後の帝都復興計画で、隅田川には恒久橋として上流から言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、清洲橋、永代橋、相生橋の9橋が架けられました(相生橋は、平成10年に新橋に架け替えられています)。つまり現存する8橋が、隅田川に架かる震災復興橋梁ということに。

耐久性だけでなくデザインにもこだわった復興橋梁群

大正12年9月1日11:58に発生した関東大震災(相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9と推定される巨大地震)では、隅田川に架かっていた5ヶ所の鉄橋のうち、永代橋、厩橋、吾妻橋が焼け落ち、両国橋も車道部は残ったものの歩道部を焼失しています。

いずれの橋も鉄橋でありながらも、橋底や橋板に木材を使用していたため、近隣からの飛火や水上の船舶の火災などで引火したもので、橋の焼失によって対岸に渡ることもできず、避難民は川に追い詰められる格好になりました。
唯一残ったのは明治45年に架橋された耐火鉄橋の新大橋で、避難路として多くの人の命を救ったことから「人助け橋」と呼ばれるようになったのです(新大橋は、橋台の沈下などもあって昭和52年に架け替えられ、中央区側にあたる全体の8分の1が博物館明治村に移築保存されています)。

国が設置した帝都復興院復興局が、言問橋、駒形橋、蔵前橋、清洲橋、永代橋、相生橋の6橋を、そして当時の東京市が吾妻橋、厩橋、両国橋を手掛け(隅田川以外にも周辺の運河にも永久橋が架橋されています)、復興のシンボルとなる都市景観を創り出すために、その場所の地域環境にふさわしいデザインが丁寧に検討され、美しいフォルムの橋が架橋されているのです(次なる大震災に備え、どの型式の橋が強いかを検証する意味をもたせたとも)。

大正15年、隅田川に架かる復興橋として最初に竣工した永代橋は、「帝都東京の門」、昭和3年に架橋されたの清洲橋は、当時、中洲の渡しがあった場所に、震災復興橋梁として新たに架けられたもので、曲線的で優美な外観は、男性的な永代橋と対になるようにデザインされ、「震災復興の華」と称されました。

水上バスから眺めれば、「橋の美術館」ともいえる優美な景観を観賞でき、夜はライトアップされ、ひときわロマンチックです。

隅田川の震災復興橋梁 現存8橋

言問橋(ことといばし)

所在地:東京都墨田区向島1〜台東区浅草7・花川戸2
架橋担当:内務省復興局(帝都復興院復興局)/実際の設計は東京市復興局橋梁課・岩切良助が担当
構造:3径間ゲルバー鈑桁橋
橋長:237.7m
幅員:22.0m
着工・竣工:大正14年5月11日/昭和3年2月10日
概要:震災以前は「竹屋の渡し」(向島の渡し、待乳の渡し)という隅田川の渡船場
震災復興計画で日本初のリバーサイド公園として整備された隅田公園(震災復興三大公園)に架かる橋で、橋上から全方位を見渡せる桁橋で、橋上からの景観も抜群
橋桁制作は、勝鬨橋(かちどきばし)と同じ横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)

言問橋

言問橋

東京都台東区(西岸)と墨田区(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)に架る橋が、言問橋(ことといばし)。関東大震災後、帝都復興で内務省復興局(帝都復興院)が担当した6橋(隅田川六大橋)のひとつで、震災以前は「竹屋の渡し」(向島の渡し、待乳の

吾妻橋(あづまばし)

所在地:東京都台東区雷門2丁目地内・墨田区吾妻橋1丁目地内
架橋担当:東京市復興局(錢高組に発注)
構造:3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
橋長:150.3m
幅員:20.0m
着工・竣工:昭和4年6月/昭和5年12月20日(渡り初め式)、昭和6年6月開通
概要:東京都観光汽船の浅草乗船場が橋の西詰にあり、浅草観光のきょてんのひとつ
橋が完成する直前の昭和6年5月、業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)〜浅草雷門駅(現・浅草駅)間の1.1kmが開通し、東武鉄道の浅草乗り入れが実現しています

吾妻橋

1774(安永3)年10月17日に隅田川に架けられた歴史ある橋。隅田川の俗称である大川の名を取って大川橋と称していましたが、江戸の東にあるために町民たちから「東橋」と呼ばれ、吾嬬神社への参詣道でもあることから吾妻橋になりました。現在の橋は関

駒形橋(こまがたばし)

所在地:東京都台東区雷門2〜墨田区東駒形1
架橋担当:内務省復興局(帝都復興院復興局)、ただし東京市復興局橋梁課・岩切良助が設計、鉄道車両メーカーの汽車製造が担当
構造:鋼アーチ橋
橋長:149.62m
幅員:22.0m
着工・竣工:大正13年7月/昭和2年6月25日
概要:「駒形の渡し」があった場所に永久橋として架橋
渡し舟の乗り場近くに駒形堂(浅草寺縁起で伝わる浅草寺本尊・観世音菩薩が示現された)があったことが名の由来で、「観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地」

駒形橋

吉原通いの遊び人が使う代表的な渡しだったのが隅田川にあった「駒形の渡し」。黄昏(たそがれ)時に、舟を降りた粋人が、土産の紅などを購入して吉原へ向かいました。そんな「駒形の渡し」ですが、関東大震災後の復興計画で、昭和2年6月25日に駒形橋が架

厩橋(うまやばし)

所在地:東京都墨田区本所1〜台東区蔵前2・駒形2
架橋担当:東京市復興局(設計は東京市土木局)、橋桁は横浜にあった浅野造船所が製作
構造:3径間下路式タイドアーチ橋
橋長:151.4m
幅員:24.5m
着工・竣工:大正15年9月/昭和4年9月30日
概要:隅田川で唯一の3連アーチ橋

厩橋

厩橋

東京都台東区(西岸)と墨田区(東岸)の間を流れる隅田川に架るレトロな橋が、厩橋(うまやばし)。現存する橋は、関東大震災後の昭和4年9月、帝都復興計画に基づいて東京市復興局が架橋した橋。地盤の良さを反映して、隅田川で唯一の3連アーチ橋です。帝

蔵前橋(くらまえばし)

所在地:東京都台東区蔵前1・2〜墨田区横網2
架橋担当:内務省復興局(帝都復興院復興局)、橋梁課・井浦亥三が設計を担当、上部は石川島造船所(現・IHIインフラシステム)が製作
構造:上路式アーチ橋
橋長:173.2m
幅員:22.0m
着工・竣工:大正13年9月/昭和2年11月26日
概要:下流側に両国橋を眺める富士見の渡し(隅田川の渡しのひとつ)があった地
異色の黄色で塗装されていますが、現・両国国技館一帯3万6650坪(99ha)に幕府の御米蔵(収蔵する米は御家人などの下級武士の蔵米知行=給料として支給)があったこと偲び、籾殻(もみがら)を連想させる色を採用したため
高欄には当時、蔵前橋の西岸に蔵前国技館があったことから力士を象ったレリーフを配置

蔵前橋

蔵前橋

東京台東区蔵前1丁目(西岸)と墨田区横網1丁目(東岸)の間を流れる隅田川(旧称・大川)に架る橋が蔵前橋(くらまえばし)。関東大震災後、帝都復興で国が架橋した6橋のひとつで、大正13年9月に着工、昭和2年11月26日竣工の橋。復興局が蔵前橋通

両国橋(りょうごくばし)

所在地:東京都中央区東日本橋2〜墨田区両国1
架橋担当
構造:「ゲルバー橋」(カンチレバー橋)
橋長:164.5m
幅員:24.0m
着工・竣工:昭和5年2月/昭和7年5月18日
概要:関東大震災でも大きな被害がなく、残りましたが、帝都復興で新橋を架橋
架橋当時は、隅田川の言問橋(ことといばし)、大阪の天満橋(てんまばし)とともに「日本三大ゲルバー橋」と称されていました

両国橋

両国橋

東京都中央区(西側)と墨田区(東側)の間を流れる隅田川(旧・大川)に架る橋が両国橋。貞享3年(1686年)に利根川東遷で武蔵・下総国境が変更されるまでは、現在の墨田区側が下総国だったため、両国橋という名が生まれています。現在の橋は、昭和5年

清洲橋(きよすばし)|国の重要文化財

所在地:東京都江東区清澄1〜中央区日本橋中洲1
架橋担当:帝都復興院復興局、ただし東京市復興局が施工主体となり、太田圓三を中心に鈴木精一の設計
構造:自碇式吊橋(じていしきつりばし)
橋長:186.2m
幅員:25.9m
着工・竣工:大正14年3月/昭和3年3月15日
概要:モデルはかつてドイツのケルンにあった大吊り橋・ヒンデンブルグ橋(Deutzer Hängebrücke=当時世界最美の橋と呼ばれていました)で、「震災復興の華」と呼ばれた優美な橋
土木学会選奨土木遺産

清洲橋

清洲橋(きよすばし)は、関東大震災の復興事業で造られた全長186.2mの自碇式吊橋(じていしきつりばし)で、昭和3年に完成。永代橋(えいだいばし)とともに、隅田川を代表する美橋として知られ、河口に位置する永代橋が男性的で雄大なデザインである

永代橋(えいたいばし)|国の重要文化財

所在地:東京都中央区新川〜江東区佐賀
架橋担当
構造:タイド・アーチ橋
橋長:184.7m
幅員:25.0m
着工・竣工:大正12年12月/大正15年12月20日
概要:ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke)をモデルに、隅田川の入口に「帝都東京の門」にふさわしい男性的なデザインとして架橋
土木学会選奨土木遺産

永代橋

清洲橋とともに隅田川を代表する美橋として有名な永代橋は、関東大震災後の帝都復興事業として、大正15年に竣工。全長185mのタイド・アーチ橋で、ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ橋(Ludendorffbrücke)をモデルに、隅田

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