【知られざる東京】吉祥寺は「東京の巨人伝説」の中心地だった!

「昔々、富士山をつくるため、甲州(山梨県甲府盆地)の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった」などというダイダラボッチの伝説(巨人伝説)をご存知でしょうか?
実は、このダイダラボッチという巨人の伝説、日本全国に。
東京にもあるのですが、その中心が吉祥寺・三鷹界隈!
まさに驚きも巨人級というお話。

そもそもダイダラボッチとは何だ!?

『遠野物語』の作者としても知られる、日本を代表する民俗学者の柳田國男(やなぎだくにお/1875年〜1962年)は、『ダイダラ坊の足跡』(昭和2年)という全国の巨人伝説を集めた本まで残しています。

ダイダラボッチという不思議な名前も、柳田國男は、
ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を足した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味、としています。

たとえば、長野県安曇野市には、こんなダイダラボッチの伝承が。
「安曇郡で西山(西側の飛騨山脈)から削り取った土を東山(東側のなだらかな山地)に運んでいた時、もっこの綱が切れ、室山(むろやま)ができた」というもの。
この室山の山頂は公園化されていて、巨大なダイダラボッチ展望台が!

ダイダラボッチ像
↑このダイダラボッチ像で、まずはなんとなく巨人をイメージしてください。実際は国創りの伝説でもあり、もっと巨人ですが・・・

世田谷にもあった巨人の足跡伝説!

さてさて、話を東京に戻します。
民俗学の権威で、巨人伝説も研究した柳田國男は、
「東京市は我日本の巨人傳説の一箇の中心地といふことが出来る」
と断言しているのです。

実は東京都世田谷区の代田橋も巨人・ダイダラボッチ伝承が由来の地名なのです。
「ダイタの橋から東南へ五六町、(中略)長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。(中略)村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである」(『ダイダラ坊の足跡』/柳田國男著)。

これを現代語に直すと、
「代田橋の500m〜600m東南に200mほどの長さの凹地があって、巨人の右足の跡。代田(だいた)という地名は、ダイダラボッチに由来している」
となります。
その場所は、守山小学校(世田谷区代田6-21-5)の北側。
 

井の頭池は巨人の足跡だった!

世田谷に巨人伝説とは驚きですが、さらにビックリなのが、「その東京の巨人伝説の中心地が多摩地区」ということ。

井之頭小学校の体育館が建つ場所は、以前は八丁大塚という塚で、ダイダラボッチの足跡が凹地となり、はねた土が凸部になったといわれています。

伝説によると、巨人の第一歩は、杉並区の善福寺池、二歩目が武蔵野市の八丁窪地、三歩目が三鷹市の井の頭池で、北から南へと巨人は歩いていったことが判明します。

残念ながら八丁窪池は埋め立てられ、横河武蔵野FCの練習グラウンド(東京都武蔵野市中町2-10-12)になっているので、もし、応援に行く機会があったなら、ぜひ「巨人の足跡」の痕跡を探して見てください。ちゃんと凹んでいますから。

安藤広重『名所江戸百景 井の頭の池弁天の社』
↑安藤広重『名所江戸百景 井の頭の池弁天の社』。江戸時代から景勝地で池だったことがよくわかります
 

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ラジオ・テレビレジャー記者会会員/旅ソムリエ。 旅の手帖編集部を経て、まっぷるマガジン地域版の立ち上げ、編集。昭文社ガイドブックのシリーズ企画立案、編集を行なう。その後、ソフトバンクでウエブと連動の旅行雑誌等を制作、出版。愛知万博公式ガイドブックを制作。以降、旅のウエブ、宿泊サイトにコンテンツ提供、カーナビ、ポータルサイトなどマルチメディアの編集に移行。