藩邸内に祀られた水天宮を毎月5日限定で江戸の庶民に開放して「情け有馬の水天宮」といわれた、久留米藩有馬家屋敷(久留米藩江戸上屋敷)。実は、もうひとつ、当時の江戸では超高層建築の火の見櫓があって、「湯も水も火の見も有馬の名が高し」、「火の見より今は名高き尼御前」という地口(言葉遊び)を生み出しました。
湯も水も火の見も有馬の名が高し
徳川幕府から大名火消しを命ぜられた久留米藩8代藩主・有馬頼貴(ありまよりたか/藩主期間は1784年〜1812年)は当時としては異例の高さである三丈(約9m)にも及ぶ火の見櫓を久留米藩江戸上屋敷内に建てました。日本三大猫騒動の『有馬の猫騒動』では、この火の見櫓に上って怪猫を退治するということで、火の見櫓が登場しています。
徳川時代を通じて最も平和な11代将軍家斉の治世(寛政の治)。将軍家の霊廟がある上野・寛永寺と久留米藩江戸上屋敷に近い芝・増上寺を火難から守る「火の御番」の役目は、大名の華やかな名誉職でした。当時、上野・寛永寺の火防(ひぶせ)は加賀・前田家が、芝・増上寺の火防は久留米藩有馬家が担っていたのです。
久留米藩江戸上屋敷には、常に40名〜50名の屈強な火消し人足が藩邸に待機し、その華美な大名火消は江戸で一世を風靡(ふうび)していました。寛政4年(1792年)と文化3年(1806年)の2回にわたり、働きがアッパレとして将軍からお褒めの言葉を頂戴しています。
藩主・有馬頼貴も自ら華麗な火事装束に身を固め、馬上の人となって勇ましく出動。その後ろを家臣と人足たちが増上寺に向かって疾走という具合。篠山神社が所蔵する『有馬火消行列図』には久留米藩第11代藩主(最後の藩主)・有馬頼咸が颯爽と火消しに出かける馬上の姿が描かれています。
このカッコよさが、江戸庶民の羨望の的となったわけです。
「湯も水も火の見も有馬の名が高し」は、かなり高度な言葉遊びです。
「湯も有馬、水も有馬で、火の見櫓も有馬が高名」と直訳すればこうなりますが、実は、久留米藩有馬家のルーツは有馬温泉(現・神戸市)。赤松則祐の五男・義祐が摂津国有馬郡の地頭になり、有馬郷に移り住んだため有馬氏を称したのが始まり。
つまり湯も有馬には有名な有馬温泉と有馬家のルーツを見事に組み入れているのです。
さらに「水も」は、当時、江戸庶民の参拝先として人気だった久留米藩江戸上屋敷内の水天宮を指しています。毎月5日のみ、庶民の参拝が許され、「情け有馬の水天宮」という地口を生んでいます。
そして冒頭で解説した江戸随一の高層火の見櫓。
つまり、当時の人気が有馬温泉、久留米藩邸内の水天宮参拝(毎月5日)、そして久留米藩邸内の火の見櫓を巧みに入れ込んだ言葉遊びだったのです。
火の見より今は名高き尼御前
こちらも久留米藩江戸上屋敷内の水天宮の繁栄ぶりを讃えた句。水天宮本宮の久留米の水天宮は、安徳天皇の母・高倉平中宮に仕えていた女官、按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)が壇ノ浦で果てた安徳天皇や建礼門院を祀って創建した神社。尼御前と呼ばれて親しまれていたのです。
当時、久留米藩の火の見櫓は江戸の大名一の高層建築ですが、それ以上に人気スポットだったのが、尼御前(水天宮)だったわけです。
大名火消しとなった久留米藩の藩財政は火の車。「情け有馬の水天宮」ともてはやされた有馬家ですが、実は、水天宮の一般公開は、賽銭や御札が目的だったと推測できるのです。
「壁越しに賽銭が投げ入れられるくらいだから、公開したら・・・」と判断したのではないかと思われるのです。
偶然にせよ、計画的にせよ、この水天宮の公開から、江戸にある藩邸内の寺社はこぞって公開に踏み切り、1位水天宮、2位金毘羅大権現(讃岐国丸亀藩)という江戸のワンツーコンビが誕生したのです。