夏目漱石旧居跡(猫の家)

夏目漱石旧居跡(猫の家)

東京都文京区向丘2丁目、日本医科大学付属病院近くにあるのが、夏目漱石旧居跡(猫の家)。日本医科大学橘桜会館前の路側に、石碑と猫のオブジェがあるのみですが、夏目漱石が、イギリスから帰国後の明治36年から3年間暮らした場所で、処女作『我が輩は猫である』を執筆した地です。

『我が輩は猫である』、『坊ちゃん』はここで誕生!

イギリスから帰国後、東京帝国大学英文科・第一高等学校の講師になったため、勤務先の本郷に近い、東京市本郷区駒込千駄木町(現・文京区向丘2丁目)に居を構えました。
漱石が暮らす前には森鴎外も住んだという文豪ゆかりの家ですが、建物自体は、愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築され保存公開されています。

「夏目漱石旧居跡」の石碑は、鎌倉の漱石愛好家が中心となり、昭和46年5月に建立。
川端康成が題字を記しています。
1匹は塀の上を歩き、もう1匹は地上でうずくまるという猫のモニュメントも配しているのは、ここで処女作の『我が輩は猫である』が誕生し、後年「猫の家」と称されたから。

夏目漱石の妻は、猫嫌いで、子猫が何度も家の中に入ってきては摘み出すを繰り返していましたが、漱石が「そんなに入ってくるんならおいてやったらいいじゃないか」と声を上げ飼われることに。
漱石の家の東側、本郷台地の崖線を通る薮下通りの上には、かつて太田道灌の屋敷があり、その子孫が暮らす屋敷地が広がっていました。
『我が輩は猫である』のなかで「漸(ようや)くの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た」というのは、太田ノ原の古池だといわれています。
一帯は宅地化され、往時の雰囲気はありませんが、かつての屋敷地の一角が「千駄木ふれあいの杜」として保存され、『我が輩は猫である』時代の自然が残されています。

猫は明治41年、早稲田南町の家で死んだため庭に葬られています。
夏目漱石は墓標に追悼句をしたため、知人一同に死亡通知を出したほど猫を愛していましたが、それでも死ぬまで名はありませんでした。

俳人で「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した高浜虚子(当時、靖國神社に近い麹町区富士見町4丁目に居住)は、神経衰弱気味だった漱石に文章を書くことを勧め、漱石は『猫伝』という題名で書こうとしますが、虚子は『我が輩は猫である』がいいと諭して、名作が誕生します。
書き出し部分を高浜虚子の俳誌『ほとゝぎす』(ホトトギス)に載せると大変な評判となったため、当初短編の予定でしたが、小説になったのです。
こうして誕生した処女作の『我が輩は猫である』のほか、『倫敦塔』、『坊ちゃん』、『草枕』などの大作もここで執筆されました。

旧居跡は日本医科大学橘桜会館という同窓会館に変わっています。
夏目漱石は明治36年から明治39年まで千駄木に住み、本郷西片町(現在の文京区西片)を経て明治40年、「漱石山房」と呼ばれた牛込区早稲田南町7(現・新宿区早稲田南町7「新宿区立漱石山房記念館」)に転居しています。

夏目漱石旧居跡(猫の家)
名称 夏目漱石旧居跡(猫の家)/なつめそうせききゅうきょあと(ねこのいえ)
所在地 東京都文京区向丘2-20-7
関連HP 文京区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ東大前駅、本駒込駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 文京区観光インフォメーション TEL:03-5803-1174
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
藪下通り

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東京都文京区千駄木、根津神社裏門あたりから、本郷台地の縁(へり)に沿って駒込へと続く道が、藪下通り。崖の上の薮の下を通ったことが名の由来と推測され、途中には汐見坂と呼ばれる部分があるので、往時には海が見えたことがわかります。しろへび坂周辺の

夏目漱石誕生の地碑

夏目漱石誕生の地碑

東京都新宿区喜久井町に立つ黒御影石の記念碑が、夏目漱石誕生の地碑。夏目漱石(夏目金之助)は、幕末の慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸市中・牛込馬場下に、名主だった夏目小兵衛直克(なつめこへえなおかつ)と千枝(ちゑ)の五男として生誕

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