新島・流人墓地

新島・流人墓地

東京都新島村、日蓮宗の寺、長栄寺の北、新島共同墓地の一角、共同墓地よりも一段低くなった場所にあるのが流人墓地。寛文8年(1668年)〜明治4年の間、新島には1333名の流刑囚が流され、新島で655名が病没しています(赦免されたのは489名)。死刑、獄死以外の流人がこの流人墓地に埋葬されています。

本村の共同墓地の一角に流人墓地が!

地元で流人墓(るにんばか)と呼ばれる共同墓地に埋葬された流人のうち、現在確認できるのは118基。
流人墓地の墓石で、出自が判明しているのは、飛騨・宮村(現・岐阜県高山市一之宮町)の大工・治八(じはち)の墓です。

酒樽型、茶碗とサイコロ型の墓石があるのは赦免されずに新島で命を終えた流人が、生前好んだものを仲間が墓石として刻んだもの。
白砂が美しいのは、今も新島の島民が島の東岸、羽伏浦海岸(はぶしうらかいがん)から砂を運んで敷き詰め、そして花を手向けているから。

新島に流刑後に殺人・放火などの重罪を犯した者に関しては流人墓地の南にある向畑刑場(むかいはたけいじょう)で処刑され、向畑刑場に埋葬されています(11人)。

ちなみに、新島に送られた流人は、自給自足の必要はありましたが、とくに行動の制限はなく、大工は家を建てて日銭を稼ぎ、 絵師は絵を描いて売る、手に職のない人は畑仕事を手伝うなどして生計を立てていました。
武士など経済的に余裕がある流人は民家の離れを借りて生活しましたが、一般の流人は、五人組(住民組織)に預けられ、流人小屋で共同生活をして暮らしました。
『新島流人帳』に記載される病死者655人のうちのほとんどが11月〜3月に没しているので、冬場に農漁業の手伝いがなく、飢えてしまうことが推測できます。
なかには、海岸に流れ着くものを拾っているうちに波に拐われてしまった流人(神田無宿金蔵)も記録されています。
人口比では、天明2年(1782年)の新島の人口は1990名(男性848名、女性1061名)で、在島流人は123人で、1割にも満たない数。

流人は、島人にとって貴重な情報源であり、流人経由で導入された文化も数多くあったと推測されています。

流人墓地の近くには原町の井戸の井戸もあるのであわせて見学を。

新島・流人墓地
名称 新島・流人墓地/にいじま・るにんぼち
所在地 東京都新島村本村3-1-4
関連HP 新島観光協会公式ホームページ
電車・バスで 新島港から徒歩25分
ドライブで 新島港から約2km
問い合わせ 新島観光協会 TEL:04992-5-0001/FAX:04992-5-0946
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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