杵築大社の富士山(境富士)

杵築大社の富士山(境富士)

東京都武蔵野市境南町2丁目、杵築大社(きづきたいしゃ)の境内にあるのが杵築大社の富士山。境富士と通称され、三多摩に現存するものでは清瀬・中里の富士塚に次いで2番目に規模の大きい富士塚です。明治14年5月、境村を中心に近隣22町村を束ねた富士講・身禄派の丸嘉講(まるかこう)のが築いたもの。

丸嘉講が神仏分離後の明治14年に築いた富士塚

丸嘉講(まるかこう)は赤坂伝馬町の商人、近江屋嘉右衛門(菊行道寿=その師は食行身禄の次女・食行万)を祖とする富士講(講印は○のなかに嘉)。
富士講の隆盛とともに享保18年(1733年)に嘉右衛門の弟子・赤坂善行道山から田無の秀行道栄に伝えられ、その後、秀行道栄の熱心な布教により、現在の武蔵野市、三鷹市、西東京市、保谷市、小平市、東久留米市、調布市、清瀬市(中里の富士塚を構築)、東大和市、練馬区、品川区(東海道品川宿に品川富士を構築)、埼玉県所沢市、新座市などに広がり、田無組と呼ばれる連合体が生まれたのです(本来、江戸時代には江戸八百八町に八百八講があったとされ、町単位で講中が組織されていました)。

富士仙元大菩薩の石碑があるのは、神仏分離から10年を経た明治14年でも神仏習合時代の信仰が根強く残されていたから。
現在では富士浅間神社ですが、江戸時代、浅間大神(あさまのおおかみ)は大日如来の垂迹(すいじゃく=仏が神となって仮の姿で現れること)とされ、富士山頂にも大日堂が祀られ、仏教色が強かったのです。

明治時代の廃仏毀釈によって富士山麓周辺の仏像も多くが破却され、寺は神社となり、修験者たちは俗人へと還俗(げんぞく)を余儀なくされました。
富士講も、富士山の神仏を分離し仏教、修験道を廃して神道の山として教化するということで生き残りを図りましたが、衰退は明らかでした。
そんな逆風のなかで明治14年に高さ10mもの巨大な富士塚を築いたというのは、いかに田無組に団結力があり、富士山に対する信仰心が強かったのかがよくわかります。
社務所の横に登山道が用意され、今も登拝することができます。

杵築大社の富士山(境富士)
名称 杵築大社の富士山(境富士)/きづきじんじゃのふじさん(さかいふじ)
所在地 東京都武蔵野市境南町2-10-11
電車・バスで JR武蔵境駅から徒歩6分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 杵築大社 TEL:0422-31-7307/FAX:0422-31-3073
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
杵築大社

杵築大社

東京都武蔵野市境南町2丁目にある松江藩主ゆかりの神社が杵築大社(きづきたいしゃ)。松江藩初代藩主・松平直政(まつだいらなおまさ=結城秀康の三男、徳川家康の孫、徳川家光の従兄弟)が鷹狩場の松江藩御用屋敷に出雲の杵築大社(現・出雲大社、明治4年

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