伝通院

伝通院

東京都文京区小石川の高台にある寺で、正式名は無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)ですが、一般に小石川の伝通院(でんづういん)と呼ばれています。伝通院という寺の院号は、徳川家康の生母・於大の方の法名「伝通院殿」にちなんだもので、徳川家康は母の遺骨を、三河国の安楽寺(現・蒲郡市)から移しています。

徳川家康が亡き母、於大の方を祀るために小石川に創建

伝通院
平成24年再建の山門

応永22年(1415年)、浄土宗第七祖了誉(りょうよ)が小石川極楽水(現・文京区小石川4-15)開いた草庵、無量山寿経寺がルーツ。
慶長7年(1602年)8月29日、徳川家康の生母、於大の方が伏見城で没した後(法名「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」)、家康がその菩提を祀るために寺を創建。

徳川家康は、当初、菩提寺である芝・増上寺に於大の方(伝通院)の遺骨を移そうと考えましたが、増上寺開山の聖聡上人の師・了譽が庵を開いた故地にこそ埋葬すべきという増上寺12世慈昌(じしょう=観智国師)の助言で、伝通院を開くことに。

慈昌は、徳川家康の関東入封にともない師檀の関係となった浄土宗の僧。

慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が完成し、慈昌門下の廓山(後に増上寺13世)が住職になりました。
伝通院はこうして増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席として江戸時代には大いに繁栄を見せました。
関東十八檀林(関東における浄土宗の檀林18ヶ寺)の上位で、芝・増上寺、上野の寛永寺と並んで「江戸の三霊山」と呼ばれるように。

往時には高台にあったため、境内から富士山、江戸湾を眺望したとか。

文久3年(1863年)2月4日には、江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、将軍警護のための浪士組が伝通院・塔頭(たっちゅう)の処静院(しょじょういん)に集合し、江戸を出立して中山道を上洛しています。
この浪士組が新撰組の前身となった組織です。

このとき集まったのは、勝海舟、高橋泥舟と並ぶ「幕末の三舟」のひとり、山岡鉄舟(やまおかてしゅう)、清河八郎(きよかわはちろう)を中心に近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨らです。

明治維新の廃仏毀釈で、多くの塔頭を有した寺域は狭まりましたが、夏目漱石の『こゝろ』、永井荷風の随筆『伝通院』など多くの文学にも登場しています。

その見事な伽藍も昭和20年5月25日の空襲で焼失。
現存する本堂は、昭和63年、山門は平成24年の再建。

伝通院に隣接して「指圧の心は母心、押せば命の泉わく」の浪越徳治郎が創立した日本指圧専門学校があり、伝通院の境内には指塚が立っています。

墓地には於大の方(伝通院)のほか、豊臣秀頼・本多忠刻の妻である千姫(天樹院=2代将軍徳川秀忠の長女)、若狭小浜藩主の京極忠高の妻となった初姫(徳川秀忠の四女)、徳川家康側室で大坂冬の陣では本陣に供奉し、夏の陣では伏見城に留守居をしたお夏の方(清雲院)、 幕末の勤皇志士で浪士組を創案した清河八郎、尊皇攘夷派の公卿(くぎょう)で、朝廷から追放された七卿落ちのひとり、澤宣嘉(さわのぶよし)、日本初のピアニスト・久野久、詩人・佐藤春夫、作家・柴田錬三郎、日本画の橋本明治、指圧の浪越徳治郎らが眠っています。

江戸三十三観音第十二番札所。
除夜の鐘は、例年23:00~受付(お土産付で有料)。

『江戸名所図会』に見る 伝通院

伝通院
江戸名所図会に描かれた伝通院
天保7年(1836年)刊の『江戸名所図会』「巻之四 天権之部」に描かれた伝通院。
現在の春日通りに面していた総門(左下)から本堂(右上)までを描いたもの。
江戸後期の『武江圖説』には、所化寮(しょけりょう=学僧の寮)100軒、塔頭19と記されています。

『江戸切絵図』に見る 伝通院

江戸切絵図・伝通院

 

伝通院
名称 伝通院/でんづういん
Denzuin Temple
所在地 東京都文京区小石川3-14-6
関連HP 伝通院公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ丸ノ内線・南北線後楽園駅から徒歩15分
ドライブで 首都高速飯田橋出口から約1km
駐車場 20台/無料
問い合わせ 伝通院本坊寺務所 TEL:03-3814-3701/FAX:03-3816-7757
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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