慈眼院・沢蔵司稲荷

慈眼院・沢蔵司稲荷

東京都文京区小石川3丁目にある浄土宗の寺が慈眼院(じげんいん)。元和6年(1620年)に、伝通院塔頭(たっちゅう・子院)、そして沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)の別当(神社を管理する寺)として創建。その西側には幸田露伴、幸田文が暮らしていたこともあります。

昼なお暗い鎮守の森には霊窟「おあな」が!

伝通院の覚山上人が京からの帰途、道連れとなった若き僧・沢蔵司は、元和4年(1618年)、伝通院の学寮に入り、わずかに3年で宗義を極めます。
沢蔵司はそばが大好きで、伝通院門前のそば屋に足繁く通いますが、売上になぜか木の葉が混じっていたのだとか。
実はその正体は千代田城内に勧請された稲荷大明神で、それを祀ったのが沢蔵司稲荷と伝えられています。

小石川台(武蔵野台地)の崖に位置し、昼なお暗い鎮守の森に囲まれたなかに霊窟「おあな」と呼ばれる祠(ほこら)があり、東京23区とは思えない雰囲気。
東京大空襲では伝通院方面から類焼してきた火災も、この森が延焼を阻み、小石川善光寺方面を守っています。
稲荷蕎麦「萬盛」は、沢蔵司が通ったそば屋だと伝えられ、往時から今に至るまで、その日の初茹で(初釜)のそばが朱塗りの箱に収められ沢蔵司稲荷に奉納されています。

現存する本堂は、昭和36年に再建。
伝通院本坊から沢蔵司稲荷へと続く参道の途中にあるムクの大木(「善光寺坂のムクノキ」)は、『江戸名所図会』無量山境内大絵図(無量山伝通院寿経寺の境内図)にも描かれています。

幸田露伴(こうだろはん)は、大正3年、向島の蝸牛庵から慈眼院・沢蔵司稲荷西側、善光寺坂のムクノキの前(小石川表町79番地/現・小石川3-17-16))に移り、昭和20年に疎開するまで長い間、娘の幸田文(こうだあや)とともにこの地に暮らしています。
家は戦災で焼失しますが、昭和22年に幸田文が戻って新居を構え、父・幸田露伴の没後、雑誌『文学』に『終焉』、『中央公論』に『葬送の記』を発表しています。

慈眼院・沢蔵司稲荷
尾張屋版『江戸切絵図』東都小石川に描かれた慈眼院・沢蔵司稲荷
慈眼院・沢蔵司稲荷
『江戸名所図会』に描かれた慈眼院・沢蔵司稲荷
慈眼院・沢蔵司稲荷
名称 慈眼院・沢蔵司稲荷/じげんいん・たくぞうすいなり
所在地 東京都文京区小石川3-17-12
関連HP 文京区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ後楽園駅、都営地下鉄春日駅から徒歩8分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 慈眼院・沢蔵司稲荷 TEL:03-3811-1327
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
善光寺坂のムクノキ

善光寺坂のムクノキ

東京都文京区小石川3丁目、慈眼院・沢蔵司稲荷から小石川善光寺へと下る坂道にあるムクの巨木が、善光寺坂のムクノキ。区道817号のポケットパークとし保存される古木で、伝通院中興第一世の廓山(かくざん、後に増上寺13世)が植えたと伝えられています

小石川善光寺

小石川善光寺

東京都文京区小石川3丁目にある浄土宗の寺が、小石川善光寺(正式名は月参堂縁受院善光寺)。伝通院の塔頭(たっちゅう・子院)、縁受院が前身で、慶長7年(1602年)、徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)の念持仏を安置して創建。明治17年、善

伝通院

伝通院

東京都文京区小石川の高台にある寺で、正式名は無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)ですが、一般に小石川の伝通院(でんづういん)と呼ばれています。伝通院という寺の院号は、徳川家康の生母・於大の方の法名「伝通院殿」にちなんだ

慈眼院・沢蔵司稲荷

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