東京都新宿区、飯田橋の外堀通りと早稲田通りが交差する神楽坂下交差点から、坂上の善国寺、大久保通りに向けて上る坂道が、神楽坂(かぐらざか)。坂名は江戸時代からの歴史あるもので、周辺には大正時代に隆盛を誇った花街があり、「千月」、「幸本」(ゆきもと)などの料亭が今も健在です。
大正〜昭和初期には「山の手銀座」とも称された坂
神楽坂という神楽(江戸時代初期に江戸市中に伝わった里神楽)に由来する坂名は、津久戸明神(現・築土神社)、あるいは市谷八幡(現・市谷亀岡八幡宮)の祭礼で神輿(みこし)が坂で神楽を奏すと上りやすかったから、若宮八幡(現・神楽坂若宮八幡神社)の神楽が坂まで聞こえたから、赤城明神(現・赤城神社=牛込の総鎮守)の神楽堂があったためなど諸説あり定かでありません。
明治28年、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに商店も並び、明治時代後期には牛込区第一の繁華街に。
現在、華やかな商店街となっているのは、関東大震災で日本橋・銀座の商店が移転したから。
「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂阪(かぐらざか)の通へと出かけて行つたから」(田山花袋『東京の三十年』/大正6年)と記されるように、山の手に住む人たちは、善国寺の毘沙門天の縁日に出向き、そして神楽坂で買い物というのが定番で、「山の手銀座」と呼ばれるほどに。
その後、鉄道網の充実で、ターミナルとなった新宿に賑わいが移りましたが、今も多くの店が並び、賑わいをみせています。
昭和33年に始まったのが午前中は早稲田方面(矢来第二交差点)から飯田橋方面(神楽坂下交差点)への一方通行、午後はその逆という全国的にも稀な逆転式一方通行。
田中角栄が「目白御殿」 と称された自邸から国会に向かうため、午前は飯田橋方面へ、午後は北区のために設定したという説がありますが、都市伝説で、田中角栄が力を有した以前からの交通規制です。
全国的にも足立区千住仲町ミリオン通り商店街など、数ヶ所しかない珍しい規制となっています。
さらに神楽坂は、人出の多い休日の12:00〜19:00は、歩行者専用道路とななっています。
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