東京都千代田区にある明治36年6月1日に開園した、日本で初めての西洋式庭園が日比谷公園。もとは佐賀鍋島藩江戸上屋敷などの武家屋敷があり、明治4年には陸軍操練所(後の日比谷練兵場)があった地。16.2haという広大な敷地には、池や大噴水が配され、四季折々、花が絶えないよう整備されています。
明治36年に開園した日本初の西洋庭園
明治4年、陸軍操練所が置かれ(明治18年に日比谷練兵場へ改称)、周辺の都市化から、明治19年に青山練兵場へ移転したことから、明治22年に公園としての整備が決定。
林学博士の本多静六(ほんだせいろく=後に明治神宮の森づくり、奈良公園など公園を多数手がけた「公園の父」)らで構成した日比谷公園造園委員会が設計を担当し、ドイツの留学経験から、ドイツ式庭園を範としながら、花壇や噴水、音楽堂、運動場などが整備され、江戸城の濠を心字池として埋め残すなど、和風の要素を加えています。
花壇越しには、霞ヶ関の官庁街の建物を眺望、都会の中のオアシス的役割を果たしています。
敷地内にはコンサートや集会が行なわれることで有名な昭和4年築の「日比谷公会堂」や日比谷野外音楽堂があり、現存する小音楽堂(明治38年築で、関東大震災後に修築)は日本最古の野外音楽堂。
昭和35年10月12日、日本社会党委員長・浅沼稲次郎が17歳の右翼少年・山口二矢に刺殺された浅沼稲次郎暗殺事件は、「日比谷公会堂」での演説中に起こった事件。
園内にはほかに、公園の開園とともに開業した老舗洋食店「日比谷松本楼」や、図書館としての機能と千代田区の歴史民俗資料館としての機能を備えた「千代田区立日比谷図書文化館」もあり、文化ゾーンとしての雰囲気も。
「日比谷松本楼」は、1階のグリル&ガーデンテラス、2階の仏蘭西料理ボア・ド・ブローニュ(予約制)に分かれ、伝統の「ハイカラ洋食」を味わうことができます。
第一次世界大戦後の好景気と、大正デモクラシーの気運に乗って、1920年代には、ハイカラ好きなモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)の間では「松本楼でカレーを味わい、コーヒーを飲む」ことが大流行しています。
グリル&ガーデンテラスなら、ハイカラビーフカレー、オムレツライスハヤシソース、松本楼の選べるビッグプレートなどで手軽にランチ、ホームメイドケーキで喫茶の利用も。
日比谷花壇の日比谷公園店は、昭和25年に出店。
東京の復興計画の一環として、東京都知事・安井誠一郎が、帝国ホテル内で営業する「芳梅園」に西欧風のフラワーショップ開店を要請したものです(その際に社名を日比谷花壇に)。
公園内にある心字池は、江戸城の中濠を再生したもので、心字池東側には中濠時代の石垣が現存しています。
日比谷公園の東北の角には、日比谷御門の石垣の一部や、日比谷見附跡があり、江戸時代の江戸城の一部だった名残りをみせています。
日比谷公園は、伊達政宗終焉の地
慶長6年(1601年)〜寛文元年(1661年)の間は、仙台藩外桜田上屋敷があり、あまり知られていませんが、仙台藩の初代藩主・伊達政宗は、寛永13年5月24日(1636年6月27日)、この地で没しています。
仙台藩外桜田上屋敷には、徳川家康が3回、2代将軍・徳川秀忠と3代将軍・徳川家光はそれぞれ各4回訪れています。
徳川家光は、体調不良ながら参勤交代で江戸参府後、病の床に伏した伊達政宗を案じて、死の直前にも見舞っています。
日比谷公園 | |
名称 | 日比谷公園/ひびやこうえん |
所在地 | 東京都千代田区日比谷公園1-6 |
関連HP | 東京都公園協会公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ・都営地下鉄日比谷駅からすぐ。JR有楽町駅から徒歩3分 |
ドライブで | 首都高速霞が関ランプから約1kmで日比谷駐車場入口 |
駐車場 | 日比谷駐車場(465台/有料) |
問い合わせ | 日比谷公園サービスセンター TEL:03-3501-6428 |
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