東京都千代田区、明治36年6月1日に開園した、日本で初めての西洋式庭園が日比谷公園ですが、その北側部分は仙台藩外桜田上屋敷跡。仙台藩の初代藩主・伊達政宗(だてまさむね)は、寛永13年5月24日(1636年6月27日)、この地で没し、伊達政宗終焉の地となっています。
伊達政宗は現在の日比谷公園にあった仙台藩上屋敷で没している
仙台藩の上屋敷がこの江戸城日比谷濠近くにあったのは、慶長6年(1601年)〜寛文元年(1661年)。
徳川家康が伊達政宗に江戸城に隣接する一等地を与えたことからも、重用していたことがよくわかります。
外桜田の上屋敷は3代藩主・伊達綱宗(だてつなむね)の時代まで上屋敷として使われていました。
明暦3年(1657年)の明暦の大火以降、人口の増加などに伴って江戸の町の再編(新たな都市計画)が行なわれ、御三家の城外転出に伴って、大名屋敷の移転、すべての大名に複数の屋敷を下賜することも行なわれています。
そのため、仙台藩も延宝4年(1676年)以降、幕末までは浜屋敷と称する芝口(現在の日本テレビ周辺)に上屋敷を構えていました。
外桜田上屋敷の敷地は、東西は日比谷公園の心字池西岸からテニスコート(庭球場)の東端まで、南北は日比谷濠沿いの道路から小音楽堂までという広大なものでした。
伊達政宗が藩主だった時代には、徳川家康が三度、2代将軍・徳川秀忠と3代将軍・徳川家光はそれぞれ四度、桜田上屋敷を訪れています。
寛永13年5月24日(1636年6月27日)、外桜田上屋敷で没(享年70、満68歳)。
伊達政宗が病床についた際には(食道噴門癌だと推測されています)、時の将軍である徳川家光は医者を手配したうえで江戸中の寺社に快癒の祈祷を行なわせ、死の3日前には自らが見舞いに藩邸を訪れています。
さらに江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興を禁じるなど、父である徳川秀忠が没した時以上に悲嘆に暮れたと伝えられています。
遺体は防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで駕籠に載せ、生前そのままの大名行列で6月3日に仙台に到着。
6月23日に葬儀が行なわれ、瑞巌寺殿貞山利公大居士として、翌日、経ヶ峯(瑞鳳殿)に埋葬されています。
伊達政宗終焉の地(仙台藩外桜田上屋敷跡) | |
名称 | 伊達政宗終焉の地(仙台藩外桜田上屋敷跡) |
所在地 | 東京都千代田区日比谷公園1-6 |
電車・バスで | 東京メトロ・都営地下鉄日比谷駅からすぐ。JR有楽町駅から徒歩3分 |
ドライブで | 首都高速霞が関ランプから約1kmで日比谷駐車場入口 |
駐車場 | 日比谷駐車場(465台/有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 日比谷公園サービスセンター TEL:03-3501-6428 |
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