有栖川宮熾仁親王騎馬像

有栖川宮熾仁親王騎馬像

東京都港区南麻布5丁目、有栖川宮記念公園内、東京都立中央図書館の南西に立つのが、有栖川宮熾仁親王騎馬像(ありすがわのみやたるひとしんのうきばぞう)。明治36年、参謀本部構内(現・国会前庭)に建立された像ですが、昭和37年、ゆかりのある有栖川宮記念公園に移設されています。

『トコトンヤレ節』で「宮さん」と唄われた有栖川宮熾仁親王の像

有栖川宮熾仁親王騎馬像

有栖川宮熾仁親王は、17歳の時に当時6歳の皇女和宮と婚約(皇女和宮は、後に公武合体を目的に14代将軍・徳川家茂と結婚)。

この婚約破棄もあってか、公家としては三条実美と並ぶ反幕府・尊王攘夷派の急先鋒に。
禁門の変(蛤御門の変=長州藩と幕府側が京都御所の門で交戦、長州藩が敗走)の後に失脚しますが、王政復古後に新政府の総裁に就任、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では自ら志願して東征大総督となり、錦旗を掲げて東海道を下り、江戸城を無血開城しています。

日本初の軍歌ともいわれる『トコトンヤレ節』(品川弥二郎作詞)の歌詞で、「宮さん宮さん 御馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ」の「宮さん」は、江戸に向かって東海道を下る有栖川宮熾仁のこと。

西南戦争では、鹿児島県逆徒征討総督として九州に渡り、江戸城の無血開城に尽力した西郷隆盛を討伐する立場に。西南戦争の傷病兵を看護する経緯で生まれた博愛社(後の日本赤十字社)設立にも独断で裁可しています。

明治28年の日清戦争では陸海空軍の参謀総長を務めていますが、腸チフスを発症し広島城に置かれた広島大本営に赴任途中、神戸舞子別邸で没。

陸軍参謀本部正門前(陸軍参謀本部は、近江彦根藩井伊家上屋敷跡)に、大山巌、山形有朋、西郷従道らが発起人となり、初代陸軍参謀総長としての騎馬像が明治36年に建立。
制作は靖国神社外苑の大村益次郎像、後藤房之助像(雪中行軍遭難記念像)で知られる大熊氏廣(おおくまうじひろ)で、鋳造したのは小石川後楽園に隣接した陸軍砲兵工廠です。

最高勲章となる大勲位菊花頚飾(だいくんいきっかけいしょく)を佩用した礼装姿の堂々たる騎馬姿で、除幕式典には江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)も招かれています。

往時の銅像の立つ場所は、現在の櫻の井、日本水準原点近くで、有栖川宮熾仁親王騎馬像は桜田門を眺めるように設置されていました。
東京オリンピック開催に伴う憲政記念館下の首都高速環状線建設工事で、有栖川宮記念公園に移設。

有栖川宮記念公園は幕末に盛岡藩南部家下屋敷があったところで、明治29年、有栖川宮家の御用地(有栖川宮熾仁の第四王子・有栖川宮威仁の新邸御用地)、有栖川宮威仁の没した大正2年(有栖川宮家は断絶)に高松宮(たかまつのみや)に受け継がれ、昭和9年、高松宮から東京市に公園として寄贈され、有栖川宮記念公園として開園しています。

有栖川宮熾仁親王騎馬像
名称 有栖川宮熾仁親王騎馬像/ありすがわのみやたるひとしんのうきばぞう
所在地 東京都港区南麻布5-7-29
関連HP 港区観光協会公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ広尾駅から徒歩3分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 有栖川宮記念公園管理事務所 TEL:03-3441-9642
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

有栖川宮記念公園

港区南麻布の高台(淀橋台)から台地下へという傾斜地を利用した公園。江戸時代には南部藩(盛岡藩)下屋敷だった地。明治中期から有栖川宮邸地となり、その後、高松宮家所有を経て、東京市に下賜されて有栖川宮記念公園、北側は東京府養正館となりました。東

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