東京都新島村、伊豆諸島のおにぎり型の利島(としま)と、新島(にいじま)の間にある無人島が、鵜渡根島(うどねじま)。海底火山(成層火山)の噴火口北縁(安山岩)が海上に出ているものと推測されていますが、火山活動は記録されていません。周囲は海食崖が発達し、釣り人が渡船で岩根に渡渉するだけの島となっています。
明治時代、夏の間だけ有人島だったことも
島の名は、島に祀られた鵜渡根后明神(うどねきさきみょうじん)から。
島の最高点は208.9mで、その南西側に鵜渡根后明神が祀られていますが、ちゃんと国土地理院の2万5000分の1地形図にも神社マーク、社殿が記載されています。
『新島大観』(前田長八=新島郷士館長著、昭和8年刊)によれば、明治26年〜明治37年の間に、夏場だけ新島からの移住者がいたという記録があり、八丈小島、鳥島とともに、かつては人の営みがあり、現在は無人島となった伊豆諸島の島ということに。
また、結核を患って新島から鵜渡根島に移り住んだという宇山長之助さん(明治時代、新島北部・若郷の猟師)の子孫によれば、母と2名で2年ほど暮らし、鵜渡根后明神に病気治癒を祈願して、見事願いが叶ったとのこと。
黒潮流れる島の周辺は潮流が厳しく、文政10年(1827年)、新島を出航した御赦免流人(刑期を終えた罪人)19人と島民10人を乗せた茂兵衛船(廻船)が遭難、24人が溺死するという海難事故も発生しています。
そのなかには19歳で流刑となり、50年を新島で過ごし、流人頭役に任命されるまでになっていた吉兵衛、新島在島34年という小川平四郎など30年以上の流刑の末、ようやく御赦免となった罪人も数人いて、自由の身になる期待が直前で消えていったのです。
かつてはニホンアシカの生息地だった島で、島周辺の魚影の濃さを物語っています。
潮流が厳しいため、岩根に渡るのもある程度の経験ある釣り人に限られています。
もちろん、危険防止、自然保護の観点から島周囲の海岸部以外の入島、島内探検はできません。
鵜渡根島 | |
名称 | 鵜渡根島/うどねじま |
所在地 | 東京都新島村 |
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