東京都小笠原村、東京の南方洋上1170kmにある絶海の孤島が、北硫黄島(きたいおうとう)。硫黄島、南硫黄島、西之島と火山列島(硫黄列島)を構成しています。標高792mの榊ヶ峰(さかきがみね)が聳えますが、巨大な山体の海底火山が海面上に突き出すもの。世界自然遺産「小笠原諸島」の構成資産にもなっています。
1世紀頃の石野遺跡・ストーンサークルが島の東側に
中世、フィリピンからメキシコへ向かうスペインのガレオン船(3本または4本マストの大型帆船)の太平洋航路(中国の絹織物をメキシコに運び、帰路、メキシコの銀をフィリピンに運ぶ「海のシルクロード」)にあたるため、北硫黄島の目撃記録も残されていますが、当時は無人島でした。
北硫黄島には有史以来、噴火の記録はなく、南北に細長い楕円形の島の東部の海岸に石野村、北西部に西村という地名が残りますが、戦前は有人島だった歴史から。
第二次世界大戦の末期には、北硫黄島守備隊が島に駐留し、島民は島外に疎開しています(昭和19年の疎開時に17世帯90人が居住)。
明治9年、明治政府が小笠原の領有を宣言し、明治22年に田中栄三郎が上陸、調査を行なって、耕作に向く土地と水があることを報告。
母島の石野平之丞が明治32年から開拓を始め、最盛期の大正時代には島民212人を数え(警察官が在住、定期船が年に6回寄港)、サトウキビ畑が広がり、製糖工場が稼働していました。
大正時代に北硫黄島の島サトウキビ畑から磨製石斧の出土が報告されていますが、絶海の孤島のため、調査が進まず、ようやく平成2年度〜平成3年度に調査が行なわれ、旧石野村の裏手で、×形、α形、ひし形の線刻画が刻まれた巨石(鏡石)、琉球諸島の遺跡の墓地と共通点がある環状列石(ストーンサークル)、土器、貝製品、石器などが見つかり、石野遺跡と名付けられました。
その後、平成5年7月の調査時に、2人の調査団員が昼休みに行方不明になり、ともに海中から遺体で発見される事故が発生、調査は中断しています。
本土の縄文時代、弥生時代の遺構とは異なった文化的な特徴から、ミクロネシア文化圏の影響を受けているものと推定され、マリアナ諸島~小笠原諸島~伊豆諸島~日本本土への、も う一つの海上文化伝播ルートがあったのではないかという仮説も生まれます。
古代の海の民はどこから、何のためにやってきたのか・・・、今も謎のまま、遺構は眠っていいます。
火山列島(硫黄列島)では、西之島、南硫黄島とともに世界自然遺産「小笠原諸島」の構成資産です。
小笠原海運の「おがさわら丸」を使い、北硫黄島・硫黄島・南硫黄島を巡る「硫黄三島クルーズ」(竹芝桟橋発着6日間)が行なわれているので(島への上陸はできません)、そうした特別なツアーでのみ島を眺めることが可能。
画像協力/海上保安庁
北硫黄島 | |
名称 | 北硫黄島/きたいおうとう |
所在地 | 東京都小笠原村硫黄島北硫黄島 |
関連HP | 小笠原村公式ホームページ |
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