東京都府中市、鎌倉と北関東を結ぶ主要道路の通称「陣街道」沿いにある古戦場が、分倍河原古戦場(ぶばいがわらこせんじょう)。元弘3年5月15日〜5月16日(1333年6月27日〜6月28日)、新田義貞率いる反鎌倉幕府軍と、北条泰家率いる鎌倉幕府軍との激戦の地です。
鎌倉幕府の滅亡へとつながった新田義貞軍との古戦場
元弘3年5月8日(1333年6月20日)、新田義貞は、新田荘の生品神社(現・群馬県太田市新田市/国の史跡「新田荘遺跡」)で挙兵、5月11日(西暦6月23日)に小手指ヶ原(こてさしがはら/現・埼玉県所沢市)で5月22日に北条貞国(ほうじょうさだくに=桜田貞国)を総大将とする幕府軍と激突します。
新田荘を出陣する際にはわずか150騎ともいわれた新田軍ですが、進軍とともに勢力を増し、さらに武蔵国の河越館主・河越高重(かわごえたかしげ=父・河越貞重は鎌倉幕府御家人)ら武蔵七党の新田軍参戦もあって、新田軍は次第に有利となって日没を迎えています。
翌、5月12日(西暦6月24日)、新田軍が久米川に布陣する幕府軍を攻撃し(久米川の戦い)、勝利。
幕府軍は多摩川の分倍河原まで退却、北条泰家(得宗・北条高時の弟)を大将とする10万の幕府軍の援軍を待ち、元弘3年5月15日(1333年6月27日)、最終決戦を迎えるのです。
『太平記』によれば、このときの新田軍は10万、対する幕府軍はこれをやや上回り、数的には幕府軍が有利でした。
2日間の休息を終えた新田軍は、5月15日、幕府軍への総攻撃を開始しますが、初戦は新田軍の大敗。
新田軍敗走の際、武蔵国分寺(現・国分寺市)が焼け落ちたと伝わっています。
三浦氏一族の大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を流して油断させ、翌5月16日早朝奇襲を仕掛け大勝利し、幕府軍は壊滅。
その結果、得宗・北条高時、新田義貞討伐軍を率いた北条貞国らが鎌倉・東勝寺で自害し(東勝寺跡の奧には北条高時腹切りやぐらがあります)、鎌倉幕府は滅びています(北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺に祀られています)。
京王線・中河原駅から徒歩10分ほどの新田川緑道(しんでんがわりょくどう)に分倍河原古戦場碑が立っています。
碑文は、昭和10年、新田氏の子孫と伝わる男爵・新田義美(にったよしてる)によるもの。
また、京王線・分倍河原駅の駅前ロータリーには、昭和63年、府中市によって、「新田義貞公之像」が建立されています。
分倍河原古戦場 | |
名称 | 分倍河原古戦場/ぶばいがわらこせんじょう |
所在地 | 東京都府中市分梅町2-59-4 |
関連HP | 府中観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 京王線中河原駅から徒歩10分、JR・京王線分倍河原駅から徒歩15分 |
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