下練馬の富士塚

下練馬の富士塚

東武鉄道東上線・東武練馬駅にほど近い、東京都練馬区北町、北町浅間神社にあるのが下練馬の富士塚(しもねりまのふじづか)。高さが5m、直径15mほどでさほど大きなものではありませんが、江戸時代に築かれた貴重な富士塚のひとつで、練馬区の文化財になっています。

江戸時代に下練馬の丸吉講が築いた富士塚

江戸時代の中期以降、江戸八百八町(えどはっぴゃくやちょう)にはそれぞれの富士講の講中があり、江戸八百八講(えどはっぴゃくやこう)といわれるほどに隆盛していました。

富士講は、講の代表者が参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担するというシステム。
毎年、全員が富士山に登拝することが叶わないので、町内の社に富士塚を築いたのです。
富士塚に登拝することで、富士山に登るのと同じご利益があるとされ、江戸時代には関東各地に築かれています。

下練馬(豊島郡下練馬村)の富士塚は、練馬上宿、中宿の丸吉講(まるきちこう)が江戸時代後期に築いたもので、明治5年、昭和2年に修築川越街道の下練馬宿は江戸側から下宿 ・中宿 ・上宿の3宿で構成)。

丸吉講は、新座郡片山村の浅海吉右衛門(行名・蓉行芙厚)が天保2年(1831年)に開いた富士講の講中で、わずか2年足らずで入間郡、多摩郡、豊島郡、新座郡の4郡に加入戸数4000軒の信者を集め、その勢いで、明治の神仏分離の荒波を乗り越え、都内にも下練馬の富士塚のほか、中里の富士塚(大泉富士)、板橋区赤塚・氷川神社の上赤塚富士、板橋区大門・諏訪神社の下赤塚富士を残しています。

下練馬の富士塚は、祭神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る北町浅間神社にあり、現在も地元の町会有志により、7月1日に山開きが行なわれています。

富士塚の頂には37.76mという印も。
実は、練馬区北町2丁目あたりは、標高31m〜32mほどあり、これに塚の高さを足せば、37.76mということに!

同じ練馬区には、西武池袋線・江古田駅近くに国の重要文化財に指定される江古田の富士塚 (えこだのふじづか)、そして中里の富士塚、下練馬の富士塚、氷川神社富士塚(練馬区北町)と富士塚が4ヶ所も残され、富士講が盛んだったエリアだということがよくわかります。

また下練馬の富士塚(北町浅間神社)から川越街道を江戸方面(東側)に5分ほど歩いた、ふじ大山道(現在の環状八号線)との分岐点には、「下練馬・ふじ大山道道標」が立ち、富士講の人々が、大山詣で、富士山と「両詣で」した名残りとなっています。

下練馬の富士塚
名称 下練馬の富士塚/しもねりまのふじづか
所在地 東京都練馬区北町2-41 浅間神社境内
関連HP 練馬区公式ホームページ
電車・バスで 東武練馬駅から徒歩5分
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 練馬区地域文化部 TEL:03-5984-2442
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
下練馬・ふじ大山道道標

下練馬・ふじ大山道道標

東京都練馬区、旧川越街道の下を東京都道311号(環状八号線)が通過する部分、旧川越街道路側の園地にあるのが下練馬・ふじ大山道道標。富士講が全盛時代の江戸時代中期〜明治時代、富士山と丹沢・大山の登拝を「両詣り」が盛んに行なわれ、その大山へと

ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵

ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵

東京都練馬区春日町2丁目にある丹沢・大山への大山道(大山街道)の標石(しるべいし)と地蔵尊が、ふじ大山道道標・一里塚子育地蔵。大山道は、環状八号線の開通で旧道の姿を失っていますが、随所に大山詣でに関する遺構が残されており、そのひとつが春日町

江古田の富士塚

江古田の富士塚

東京都練馬区小竹町、江古田浅間神社(茅原浅間神社)の境内に築かれている高さ8m、直径30mの富士塚が江古田の富士塚。江戸時代後期の天保10年(1839年)、下練馬村、中新井村、中村の富士講の講中で構成される小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)

氷川神社富士塚(大松の富士塚)

氷川神社富士塚(大松の富士塚)

東京都練馬区北町8丁目の大松氷川神社(おおまつひかわじんじゃ)境内に築かれている富士塚が氷川神社富士塚(大松の富士塚)。江戸時代中期以降、江戸市中とその周辺には江戸八百八講とよばれるほど富士講の講中が組織されましたが、とくに現在の練馬区は盛

赤塚諏訪神社富士塚

赤塚諏訪神社富士塚

東京都板橋区大門、赤塚諏訪神社社殿から南西に100mほどのところ、国道17号の脇にあるのが赤塚諏訪神社富士塚。江戸時代に富士講のひとつ丸吉講(まるきちこう)によって築かれたもので、現在の板橋区周辺の富士講の隆盛を今に伝える貴重な遺構です。板

下練馬の富士塚

関連記事

よく読まれている記事