江戸城百人番所(皇居東御苑)

江戸城本丸、二の丸、三の丸跡に整備された庭園が皇居東御苑。大手門、平川門、北桔橋門(きたはねばしもん)から入苑できます。度重なる火災で江戸城内の建物はほとんど焼失してしまいましたが、富士見櫓、同心番所、百人番所は現存。百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である「大手三の門」を守る大切な番所でした。

大手門から江戸城本丸に入るときの最大の検問所

皇居東御苑内で、同心番所の前を抜け、本丸大手門(大手三の門)の渡櫓門石垣の間を抜けると、百人番所。
数少ない江戸時代から残る江戸城の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、鉄砲百人組が有事に備えて詰めていました。

警備を担当したのが、徳川家と縁故のある甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、廿五騎(にじゅうごき)組。当然のことながら昼夜交代で詰めていました。
与力20人、同心100人が詰めていましたが、各組の同心100人が配備されたのがその名の由来となっています。

甲賀忍者で知られる甲賀組、服部半蔵を祖とする伊賀武士の伊賀組、紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵に由来する根来組、そして黒田家家臣によって構成された精鋭部隊の廿五騎組(二十五騎組)で、強者(つわもの)揃いだったことは容易に推測できます。

幕府直轄、信頼できる精鋭集団が甲州街道沿いに屋敷を構えたワケとは!?

鉄砲百人組は、将軍の護衛を担った警備集団。江戸城警備を担当する若年寄の直轄支配(創設当初は老中直轄支配、寛永の改革後には若年寄支配)で、若年寄の下に鉄砲百人組頭が配されていました。

将軍が寛永寺や増上寺に参詣する際、さらに京の御所に参上する際には隊列を整え将軍の警護を担うという重責です。

そんな百人組の同心たちですが、普段は、甲州街道沿いの甲賀組・青山、伊賀組・大久保、根来組・市ヶ谷、二十五騎組・内藤新宿に組屋敷を構えていました。

実は、それにも練りに練られた理由があったのです。
いざという時に、将軍は江戸城半蔵門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子千人同心が守る八王子を経由して、甲斐(山梨県)の甲府城に逃れるという脱出プランを立てていたのです。

棟瓦には葵の紋(三葉葵)が付いていることも、お見逃しなく!

古地図と園内図の対比で知る百人番所

服部半蔵と新宿百人町
徳川家康に仕えた2代目・服部半蔵(服部正成)は、伊賀同心の支配役として活躍。小説、映画やドラマに描かれる服部半蔵の多くがこの2代目です。
家康が、秀吉の命で関東に転封され江戸入府の際には、家康とともに先陣を務めたのが当時は伊賀の地侍だった2代目・服部半蔵を頭領とする鉄炮同心百人と玉薬同心(弾薬製造を担当)。まさに家康警備のシークレットサービス! そのトップが服部半蔵だったというワケなのです。
家康は、江戸入府に際して、小田原を拠点とした北条家の残党に対する警戒心から浜松以来の腹心・内藤清成(現在の新宿御苑周辺に藩邸を構え甲州街道の宿場、内藤新宿のルーツともなっています)をトップに伊賀組(鉄炮百人組)を大久保に配して、日夜訓練を行なって有事に備えました(2代目・服部半蔵の墓は新宿・西念寺)。
息子の服部正就(3代目・服部半蔵)も伊賀同心を差配しますが、配下の伊賀同心を、自分の家来のように扱ったため、配下から反発を受け解任されています。この事件からも、百人番所に詰める同心たちが幕府直轄で、高いプライドがあったことがよくわかります。
新宿百人町という地名は、この鉄砲百人組に由来する地名ですし(同心屋敷の総面積は、15万2000坪もありました)、屋敷の北側(百人町3丁目・4丁目)に火縄銃、大筒の練習場に使用する8000坪の「角場」(実弾射撃場)を有していました。



 

江戸城百人番所(皇居東御苑)
名称 江戸城百人番所(皇居東御苑)/えどじょうひゃくにんばんしょ(こうきょひがしぎょえん)
所在地 東京都千代田区千代田1-1
関連HP 宮内庁公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ東西線・都営三田線大手町駅から徒歩6分。東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩10分、JR東京駅丸の内北口から徒歩11分
駐車場 無/大手センターパーキング(185台・有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 宮内庁 TEL:03-3213-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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