清澄庭園

三菱財閥の祖・岩崎弥太郎の命により、明治13年に完成した池泉回遊式庭園。もとは下総国関宿の城主・久世家の荒廃した下屋敷だった場所を蘇らせ、賓客の接待や社員の慰安所として使用した。造園に大変な関心を寄せていた弥太郎は、こよなく石を愛したことで知られ、ここにもたくさんの銘石が集められています。東京都の名勝に指定。

関宿藩下屋敷の庭園を三菱財閥岩崎家が大きく手直し!

 

 
享保年間(1716年~1736年)以降、下総国関宿(せきやど)藩主・久世大和守の下屋敷だった場所。
庭園の土台は、この関宿藩下屋敷時代に造られた大名庭園と推測できます。

元禄年間(1688年〜1704年)に紀州出身の豪商・紀伊國屋文左衛門の別邸があったというのは「伝説」にすぎません。

明治11年、岩崎弥太郎が購入し、明治13年にかけて大名屋敷の庭園を大きく手直ししています。
岩崎弥太郎は六義園(駒込)も所有し、手入れしているので、大の庭好きだったことがよくわかります。

弥太郎の弟で、三菱の社長の座を継いだ岩崎弥之助は、泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年、回遊式築山林泉庭園として完成。

岩崎兄弟は、石にも造詣が深く、「磯渡り」と呼ばれる池に点々と配された飛び石は、ひとつが直径2〜3mの自然石。しかもそれぞれの色合いも微妙に異なっているという優れもの。
三菱所有の船を使って、日本全国から運びこんだという、岩崎家ならではの贅沢な飛び石なのです。

泉水、築山、枯山水を用いる回遊式林泉庭園は、江戸時代の大名庭園で育まれた造園手法ですが、明治時代にも財閥、皇族などに引き継がれ、清澄庭園が近代的な完成スタイルといわれています。

庭園の深閑とした森で関東大震災で2万人の命が救われた!

明治22年、庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられましたが、大正12年の関東大震災で焼失。
関東大震災では近隣住民の避難場所となり、4000本もの木々が茂る庭園が深川区民2万人の命を救ったともいわれています。
陸軍被服廠跡(現・横網町公園)では3万8000人が焼死していますから、この庭園で多くの尊い命が救われたことになります。

大正13年、三菱3代目社長・岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)は、庭園のもつ防災機能を重視し、東京市に被害の少なかった庭園の東半分を公園用地として寄贈。
大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設した「大正記念館」を移築、そして深川図書館を建築して昭和7年、清澄庭園として開園しました。

このほか園内には、明治42年に来日したイギリス軍人でスーダン遠征などの英雄、キッチナー元帥(Horatio Herbert Kitchener/1850年〜1916年)を迎えるために建てられた、数寄屋造りの「涼亭」などがあり、泉水越しに眺める涼亭は絵になる光景。
「大正記念館」は戦災で失われましたが、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建されています。

昭和48年、東京都は残る西半分の敷地を購入。昭和52年、自由に立ち入ることができる清澄公園として公開しています。

庭園の見どころ
1 大泉水

3つの中島を配した広い泉水。昔は隅田川から水を引いていたため、干満の影響を受けて、風景が変わったといいます。
現在は雨水を集めて池の水になっています。

庭園の見どころ
2 磯渡り

池の端に石を飛び飛びに置いて、そこを歩けるようにした飛び石。ファミリーにもちょっぴり冒険心を満たしてくれて、人気です。

庭園の見どころ
3 銘石

三菱の汽船を使って、全国から集めた銘石の数々。代表的なものだけでも伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石と多彩です。
敷石や、石橋にも惜しみなく石が使われ、銘石ファンにはたまらない魅力。

伊予青石
置石の道

庭園の見どころ
4 富士山

清澄庭園でもっとも大規模な築山が池に臨む富士山。
関東大震災以前、築山の山頂近くには、サツキやツツジなどの低木を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現していました。
富士山の前の泉水は、太平洋の大海原となります。

庭園の見どころ
5 涼亭

大泉水に突き出すように築かれているのが「涼亭」。
明治42年国賓として来日したイギリスのキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもので、東京都選定歴史的建造物。

庭園の見どころ
6 野鳥観察

通年観察できるのは、カルガモ、キジバト、ヒヨドリ、オナガ、ムクドリ、シジュウカラ、アオサギ、カワウなど。
川、運河、海に近いので、ユリカモメなど海鳥も多く観察できます。

庭園の見どころ
7 季節の花

カンヒザクラ、アジサイ、ツツジ、ハナショウブなどが清澄庭園で愛でることのできるおもな花。

三菱財閥3代(岩崎弥太郎・岩崎弥之助・岩崎久弥)

岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現・高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)出身。甲斐武田の末裔で、三菱という家紋も武田菱に由来しています。明治6年に三菱商会を立ち上げ、翌年、三菱蒸汽船会社としていますが、これが三菱財閥の始まり。西南戦争の軍事輸送などで利益を得ますが、明治18年、51歳の若さで病死。

後任は、弟の岩崎弥之助。三菱商会に共同運輸会社を合併して日本郵船を誕生させ、さらに鉱山開発、造船、金融など多角経営に乗り出します。実質的な財閥化は、岩崎弥之助が進めたともいえるのです。

明治26年に三菱合資会社を設立。三菱社の合資会社転換と同時に三菱の総帥の座を甥である岩崎久弥(弥太郎の長男)に譲っています。

3代目総帥となる岩崎久弥も麒麟麦酒、小岩井農場の設立に尽力。グループの発展に貢献するほか、六義園、清澄庭園も久弥が東京市に寄贈したもの。

岩崎弥太郎
岩崎弥之助
岩崎久弥

江戸切絵図に見る 関宿藩江戸下屋敷(清澄庭園)



 

清澄庭園
名称 清澄庭園/きよすみていえん
所在地 東京都江東区清澄3-3-9
関連HP 東京都公園協会公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄大江戸線清澄白河駅A3出口から徒歩3分
ドライブで 首都高速清洲橋ランプから約1km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 清澄庭園サービスセンター TEL:03-3641-5892
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
清澄庭園『花菖蒲と遊ぶ』

清澄庭園『花菖蒲と遊ぶ』|江東区|2024

2019年6月2日

関連記事

よく読まれている記事