江戸・石川島(現・東京都中央区佃)に火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)・長谷川平蔵の立案で、幕府が築いたのが加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば/略称・人足寄場)。増大する無宿人を中心に軽犯罪者に対し、自立支援的な手法を取り入れた江戸時代としては画期的な施設です。
天明の大飢饉による無宿人の増大が設置の背景に

天明7年(1787年)、松平定信が老中となると田沼時代の反省から、倹約を奨励しつつ、庶民を救済しようとする寛政の改革が始まります。
無宿人などを取り締まる立場にあった火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)・長谷川平蔵は、寛政元年(1789年)、老中・松平定信に人足寄場設置を提言。
寛政2年(1790年)に創設され、明治維新で廃止されるまで続いたのが隅田川河口・石川島の人足寄場です。
重い犯罪を犯した罪人は、佐渡送りで、佐渡金山の重労働という使役が課されることもありましたが、軽犯罪の罪人、天明の大飢饉で荒廃した農村から江戸に流入した無宿人(罪を犯したり、勘当されたりして戸籍から外された人)に対しては、使役する場所がありませんでした。
大工仕事、建具仕事、紙漉きなどの職業訓練(現在の刑務作業)を行なわせ、その手間賃の3分の1を3年間積み立てて、出所時に手渡したほか、現在の教誨(きょうかい)に該当するような生活指導なども行なわれていました。
人足寄場での強制労働は刑罰ではなく、刑罰の執行を終了した無宿人を主に収容する施設で、「無罪の無宿」(松平定信)を職業訓練する施設です。
なお長谷川平蔵が立案したというのが定説ですが、松平定信がすでに行なわれていた熊本藩の徒刑(とけい)制度を参考に、長谷川平蔵に設置・運営を命じたと考える研究者もあり、その可能性も大です。
職業訓練や教育を行なった先進的な施設

人足寄場の中心となる事業は、出所後に就きたい職業の訓練。
そのため、職種も木工、藤工、鍛冶工、石工、靴工、竹工、鋳物工、瓦工、石灰工、藁工、裁縫工、米麦搗き、機織り、味噌製造など23職種にわたっています。
また出所後には江戸に土地や店舗を与えるなどの自立支援を行ないましたが、残念ながら現代と同様に再犯に走るものも多かったと伝えられています。
江戸時代のことなので、実際には橋の建設、堀淩え(ほりざらえ)、道路工事、田畑の開墾、材木運搬などにも就労させています。
田沼時代に飢饉が各地に勃発し、無宿人が江戸に増えたという世相を安定させるための対策のひとつで、近世としては画期的な制度でした。
現代に置き換えれば、伝馬町牢屋敷は現在の留置場(警察署)、そして人足寄場が軽犯罪者を収容する刑務所といった感じです。
長谷川平蔵が火付盗賊改方の長官を担った際には、火付盗賊改方の管轄でしたが、以降は町奉行所の管轄となり、人足寄場奉行が設置されています。
人足寄場の跡地には石川島灯台が復元されていますが、初代の灯台は、慶応2年(1886年)人足寄場奉行が石川島の人足を使役し、油絞りの益金を使って建設した燈明台が前身。
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