東京都青梅市にあるJR青梅線・軍畑駅(いくさばたえき)。首都圏の難読駅名の代表格でもある駅名ですが、何やら古戦場を思わせる駅名になっています。あまり知られていませんが、一帯は関東進出を図る上杉謙信の最前線にあたり、永禄6年(1563年)、辛垣合戦(からかいかっせん)が行なわれています。
ドラマチックな戦国時代の歴史を秘める!

長尾景虎(後の上杉謙信)は将軍・足利義輝から上洛要請を受け、たびたび上洛していますが、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元が敗れたことでの甲相駿三国同盟崩壊を受け、小田原の北条攻めを決意します。
上州(群馬県)の北条方の諸城を攻略し、永禄4年(1561年)、鶴岡八幡宮(鎌倉)で、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名、足利将軍家から正式に関東管領職が認められたことになりました(上杉家は足利宗家の外戚)。
上杉政虎(後の上杉謙信)は川中島で武田信玄と戦いながら、小田原城を攻めますが、関東各地で武田軍・北条軍の攻撃を受けていました。
永禄5年(1562年)、武蔵国(埼玉県・東京都)へ侵攻しています。
当時の青梅市には、上杉謙信の関東侵攻後に上杉方についた三田綱秀の辛垣城(からかいじょう)がありましたが、北条勢の攻撃で落城しています。
この戦いが辛垣合戦で、三田軍(上杉方)と北条軍は多摩川を挟んで激戦を展開。
軍畑駅近くの河岸段丘には鎧塚(よろいづか)と称される直径30m、高さ9mほどの円墳がありますが、戦死者の鎧や兜を埋めるために築かれたと伝えられています。
北条軍の多摩川渡河をどう食い止めるかが三田軍にとっては死活問題でしたが、数で勝る北条軍は多摩川を越え、山城の辛垣城に攻め上がり、急斜面に火を放って、山ごと焼き尽くしたのです。
上杉謙信の最前線に位置していた奥多摩で起こった辛垣合戦は、歴史に埋もれた戦いですが、軍畑という地名、駅名となって後世にその歴史をとどめています。
【駅名の由来】青梅線・軍畑駅 | |
名称 | 青梅線・軍畑駅/おうめせん・いくさばたえき |
所在地 | 東京都青梅市沢井1丁目 |
関連HP | JR東日本公式ホームページ |
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