関東大震災(大正12年9月1日)からの帝都復興を目指した震災復興道路の軸のひとつ「幹線第四号」が、晴海通り(はるみどおり)。祝田橋交差点(千代田区)から銀座の中央を縦断、銀座四丁目交差点、歌舞伎座前を経て、勝鬨橋(かちどきばし)、豊洲を経て東雲交差点(江東区)へ至る幹線道路で、当初は歌舞伎通りと称されていました。
銀座四丁目、歌舞伎座、勝鬨橋と観光名所がズラリ
江戸城内濠(日比谷公園・日比谷濠横)の祝田橋交差点(千代田区)〜東雲交差点(江東区)間の6.5km、幅員36mの幹線道路。
日比谷公園、日比谷濠の横を走る部分の祝田橋交差点〜日比谷交差点は国道1号、そして日比谷交差点〜東雲交差点は、東京都道304号(日比谷豊洲埠頭東雲町線)になっています。
銀座四丁目交差点には有名な銀座のランドマークで経済産業省の近代化産業遺産認定の「和光本館」(セイコーハウス銀座時計塔)、銀座三越のライオン像、さらに東銀座で歌舞伎座前を抜け、勝鬨橋を渡ります。
勝鬨橋は、昭和15年に国家的イベントとして計画された「紀元2600年記念日本万国博覧会」(「東京万博」=日中戦争の激化などで軍部の反対、参加国の減少もあって中止)のメインゲートの役割を担った橋で、昭和8年6月10日に着工、物資不足で昭和15年6月14日に完成しています。
「紀元2600年記念日本万国博覧会」は、月島4号地(現・晴海)と5号地(現・豊洲)をメイン会場として開催する計画で、晴海通りはそのアクセス路となっていました。
当時は、隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させるために、勝鬨橋も跳ね上げ式の可動橋となっていました(清洲橋、永代橋とともに国の重要文化財)。
晴海通り(歌舞伎通り)が江戸城の外濠をまたぐ場所には、帝都復興事業によって昭和4年に完成した数寄屋橋(すきやばし)が架かっていました。
近代日本建築運動のリーダーのひとりで、和風建築の名手とされた山口文象(やまぐちぶんぞう=清洲橋、浜離宮南門橋などにも関わっています)が設計した美しい石造二連アーチ橋でしたが、昭和33年、外堀が埋められ東京高速道路(現在の首都高速)が建設されるのに伴って破却されてしまいました。
戦後、一斉を風靡したラジオドラマ『君の名は』では、半年ごとに数寄屋橋での待ち合わせが約束されたことで一躍有名なスポットになっていました。
晴海通り(震災復興道路) | |
名称 | 晴海通り(震災復興道路)/はるみどおり(しんさいふっこうどうろ) |
所在地 | 東京都千代田区霞が関〜江東区東雲 |
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