東京都豊島区巣鴨5丁目、日蓮宗の寺・慈眼寺(じげんじ)の境内にあるのが、芥川龍之介の墓(あくたがわりゅうのすけのはか)。彼が生前に愛用した五七桐紋が描かれた座布団が天辺にそのままデザインされるユニークな墓で、本人の遺言によってこのかたちが生まれています。
芥川龍之介は、芥川家の菩提寺・慈眼寺に眠る
芥川龍之介は、明治25年3月1日、東京市京橋区入船町8丁目(現・東京都中央区明石町)の牛乳製造販売業・新原敏三、フクの長男として生誕。
芥川龍之介が生まれた頃は、東京における牛乳の勃興期で、冷蔵技術がないことから、麹町区、芝区、京橋区などで牛を飼育し、同時に搾乳事業を行ない、近隣に牛乳を販売していました。
明治31年、江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)入学、東京府立第三中学校、第一高等学校を経て、東京大学に入学。
大正4年10月には、代表作のひとつ『羅生門』を『帝国文学』に発表しています。
大正7年『蜘蛛の糸』、『地獄変』、『邪宗門』、大正8年『蜜柑』、昭和2年『河童』、『蜃気楼』、『浅草公園』、『西方の人』など多くの名作を残しています。
昭和2年7月24日、遺作となる『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺(享年36=数え年)。
芥川龍之介は大正3年〜昭和2年の間、当時、文人が多く集まった田端で暮らし、長男の誕生、関東大震災(自警団の一員となっています)、服毒自殺もこの田端の家でした。
葬儀は、7月27日、東京谷中斎場で行なわれ、泉鏡花、里見淳、菊池寛の3名が弔辞を読み、菩提寺の慈眼寺に埋葬されたのです。
「芥川龍之介君よ
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん」
(友人總代 菊池寛)
妻・文子がクリスチャンだったため「俗名 芥川龍之介之霊位」と俗名のままに葬儀が行なわれますが、慈眼寺での五七日忌法要で、懿文院龍介日崇居士と決まりました。
ちなみに芥川龍之介が 『蜘蛛の糸』を著したのも日蓮宗の信徒だったことも大きな理由だと推測できます。
芥川龍之介の墓がある慈眼寺は、慶長20年(1615年)、深川六間堀(現・江東区新大橋)に創建。
元禄6年(1693年)に猿江(現・江東区猿江)に移り、大正元年、巣鴨に移転、山号を正寿山と改めています。
「昔は本所にあった家の菩提寺を思い出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も建っていたものである。(略)この寺は慈眼寺という日蓮宗の寺で震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転している」(芥川龍之介『本所両国』)。
慈眼寺には江戸時代の絵師で蘭学者としても知られる司馬江漢(しばこうかん)の墓もあり、東京の墓マイラーにとっては注目の寺のひとつです。
芥川龍之介の墓 | |
名称 | 芥川龍之介の墓/あくたがわりゅうのすけのはか |
所在地 | 東京都豊島区巣鴨5-35-33 |
電車・バスで | JR・都営地下鉄巣鴨駅から徒歩10分 |
問い合わせ | 慈眼院 TEL:03-3910-1579 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |