2024年10月12日(土)〜10月13日(日)、東京都台東区谷中3丁目の、東京都台東区谷中3丁目の大円寺で『谷中菊まつり』が行なわれます。江戸時代から明治時代にかけて人気を博した団子坂の菊人形を、昭和59年に『菊まつり』として復活、再現したもので、菊人形の展示、菊小鉢の販売が行なわれ、露店が出て賑わいます。
明治時代には有名だった『団子坂の菊人形』を復活!
団子坂の菊人形は、江戸時代に藩邸の庭の手入れを行ない、ソメイヨシノを生み出した巣鴨・染井の植木職人が造り菊(人物や鳥獣、風景を造形する菊細工)として江戸時代後期に巣鴨・染井界隈の寺で参拝客に見せたのが始まり。
弘化元年(1844年)、巣鴨の霊感院で「日蓮上人の法難」と「蒙古襲来」を再現した「菊細工」が評判となりましたが(これが菊人形のルーツとされています)、明治維新とともに廃れていきます。
幕末の安政3年(1856年)、巣鴨から団子坂に移住した植木屋(後の「植梅」)が明治8年に製作した菊細工が評判となって、翌年から入場料をとるまでに発展、団子坂の菊人形が見物客を集めるようになったのです。
寛永寺に近い谷中には寺、庭も多かったことから、植木職人が数多く暮らしていました。
団子坂の菊人形の最盛期は明治20年~30年代で、「植梅」、「種半」、「植惣」、「植重」の四大園を中心に「植浅」、「高木」、「薫風園」など20軒ほどがその技を競いました。
その後、団子坂の菊人形は、急激に人が減って明治43年に廃絶し、有名な「植梅」もそば屋「菊そば」(梅寿楼)に転身しています。
夏目漱石の長編小説『三四郎』(明治41年、『朝日新聞』連載)に、
「坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。」
「一行は左の小屋へ這入った。曽我の討入りがある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫りである。」
というシーンが登場しますが、これが第一高等学校英語教師・広田萇(ひろたちょう)、主人公・小川三四郎一行の団子坂での菊人形見物。
幅2間という狭い坂道の団子坂の両側に並ぶ菊人形は、『新撰東京名所図會』(明治40年)などにも着物姿の見物客が詰めかける様子が描かれ、その賑わいぶりがわかります。
こうした団子坂の菊人形を今に伝えるのが、『谷中菊まつり』というわけです。
なぜ菊人形かといえば、当時、谷中に暮らした大勢のプロの園芸家が、自分たちが栽培する花々を展示するに当たり、目を引く手段として、菊人形を制作、それが名物となり、入場料をとるまでに発展したのです。
谷中菊まつり|2024 | |
開催日時 | 2024年10月12日(土)〜10月13日(日)、東京都台東区谷中3丁目の |
所在地 | 東京都台東区谷中3-1-2 |
場所 | 大円寺 |
関連HP | 台東区公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ千駄木駅から徒歩5分、JR・京成線日暮里駅から徒歩10分 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |