東京都新宿区、JR飯田橋駅横の東京都道405号(外濠環状線)・外堀通りから台地上へと上る坂が、軽子坂。賑やかな神楽坂のひとつ北にある坂で、坂下の江戸城の外堀(飯田濠)に船着き場があり、船荷を軽籠(かるこ=縄を縦横に編み、四隅に縄を付けたもっこ)に入れ江戸市中に運搬した軽籠持(軽子)が周辺に暮らしていたのが名の由来です。
神楽河岸で陸揚げされた物資を軽籠持が運んだ坂道
飯田濠は、神田川の支流(上流)にあたり、神楽河岸(かぐらがし)があり、建設廃材の集積所があったため、昭和30年代にはまだ艀(はしけ)が何艘も停泊していました。
現在の飯田橋と牛込橋の間の西岸が部分は、すべて神楽河岸で、高度成長期の水質汚濁など環境悪化により、飯田濠は埋め立てられて園地、飯田橋セントラルプラザ・ラムラなどに転用されています(昭和61年に再開発が完了)。
神楽河岸という町名は、河岸があった名残で、隣接の揚場町(あげばちょう)は、船で運ばれた荷を陸揚げした武家専用の牛込揚場のあった町の意(河岸は町人専用、物揚場は武家専用)。
その揚場町の縁(へり)にあたるのが軽子坂で、荷揚げした物資を緩やかな傾斜の軽子坂を利用し、軽籠持たちが運んだ姿が想像できます。
軽子坂の下、外堀通り沿いの歩道には、牛込揚場の碑も立っています。
『新編江戸志』や『新撰東京名所図会』にも坂名が記載されているので、往時の賑わいも推測できます。
明暦3年(1657年)の明暦大火により、江戸城修復、武家屋敷や寺院の再建や移転など、膨大な建築工事と土木工事が行なわれたため、 建設資材の需要も急増。
その物流を支えるため、神楽河岸、牛込揚場が築かれたのです。
神楽坂界隈が発展するのも明暦大火以降で、花街や武家屋敷に物資を運び込む河岸、揚場としても活用されました。
軽子坂 | |
名称 | 軽子坂/かるこざか |
所在地 | 東京都新宿区神楽坂・揚場町・津久戸町 |
電車・バスで | JR・都営地下鉄・東京メトロ飯田橋駅から徒歩3分 |
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