東京都多摩市永山4丁目、万葉時代から「多摩の横山」と呼ばれた多摩丘陵にあるのが、防人見返りの峠(多摩丘陵パノラマの丘)。「多摩よこやまの道」途中にあり、古代の東海道が走り、九州へ向かう防人(さきもり)たちが故郷を振り返っただろうといわれる峠のため、防人見返りの峠と名付けられています。
九州へと旅立つ防人が、故郷・武蔵国を振り返った峠
駿河国(現・静岡県)から足柄の坂を越えて相模国(現・神奈川県)に入り、さらに武蔵国府(現・府中市・大国魂神社周辺)を結ぶ古代の東海道。
東海道は三浦半島の先端から海路で房総半島へと渡っていましたが、律令制の始まった8世紀ころから相模国から武蔵国を経て、現在の荒川・江戸川の河口部を横断して下総国に達し、さらに常陸国、陸奥国(東北)へと達する道が使われるようになりました。
多摩市の中央部を南北に貫く鎌倉街道は、古くは相模から武蔵国府に至る古代の官道で、地元で「ハヤノ道」と呼ばれる道が古代の東海道だと推測されます。
多摩川流域は屯倉が置かれるなど、古墳時代から律令時代の政治的な中心で、律令制の充実とともに相模国から武蔵国府への官道として多くの旅人が歩んだと推測されます。
逆に東国から九州へと派遣された防人(さきもり)は、この古道を通ったことから、峠で武蔵国を振り返ったと推測できることから、地元では眺めのいい多摩丘陵パノラマの丘を防人見返りの峠と名付けてPRしているのです。
『万葉集』には、「赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆかやらむ」(巻二十 4417/現代語訳=赤駒を山野のなかに放牧して捕えられず、わが夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろう)と詠まれています。作者の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)は、豊嶋郡(としまのこほり)の椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻。
つまりは、奈良時代、防人として出征する夫を気遣った妻が詠んだ歌ということに。
『万葉集』に詠まれた防人たちは、古代の東海道で九州(663年の白村江の戦い以降、北九州は、対朝鮮半島の国境警備で緊張状態にありました)へ旅立ったのでしょう。
現在は、多摩丘陵パノラマの丘と称されるように、多摩ニュータウンを一望にし(眼前に永山団地)、夜景のスポットとしても知られています。
防人見返りの峠(多摩丘陵パノラマの丘) | |
名称 | 防人見返りの峠(多摩丘陵パノラマの丘)/さきもりみかえりとうげ(たまきゅうりょうぱのらまのおか) |
所在地 | 東京都多摩市永山7-12 |
関連HP | 多摩市公式ホームページ |
電車・バスで | 小田急電鉄はるひ野駅から徒歩25分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 多摩市公園緑地課 TEL:042-338-6827/FAX:042-338-6857 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |