東京都新宿区新宿2丁目にある浄土宗の寺が、成覚寺(じょうかくじ)。文禄3年(1594年)の創建で、元禄10年(1697年)、甲州街道の宿場・内藤新宿が設けられ、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女が増えて以降は、飯盛女が没した際の投込寺ともなった歴史を有しています。
内藤新宿の飯盛女の存在を今に伝える子供合埋碑
境内(区画整理で、境内の中央付近に移設)に残る石碑、子供合埋碑(こどもごうまいひ)は、万延元年(1860年)、内藤新宿の旅籠(はたご=宿屋)の主人たちが飯盛女たちを埋葬した惣墓(共同墓地)の墓印として建立したもの。
当時、公式な遊郭のなかった内藤新宿の旅籠では、飯盛女と呼ばれる宿場女郎(しゅくばじょろう)を抱えていました。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買でもあり、宿屋との契約は年季奉公(年限を定めた住込み奉公、江戸時代には人身の永代売買は禁じられていました)で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたのです。
「子供」というのは、旅籠の主人たちが飯盛女たちを子供と呼んだことに由来します。
江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたため、接客をする女性という意味での飯盛女を置き、実際には売色を行なっていました。
内藤新宿は道中奉行により、宿場全体で150人まで飯盛女を置くことを許されていましたが、実際には倍以上抱えていたといわれ、安永6年の『譚嚢』に新宿の女郎が「品川の女郎を品川の女郎衆は総体、下卑さ。あれは船頭に付き合うからだのう、馬子(なご)どの」とけなしたという笑い話が出ています(品川の女郎は船頭相手だから下品だけなした新宿の女郎は、実は馬子が相手)。
当時、甲州街道は馬の糞が数多く落ちているというほど、馬と馬子(馬を扱う人)の往来が多かったといわれています(甲州街道を利用する参勤交代の大名家は、高遠藩、飯田藩、諏訪藩のわずか3藩で、一般の旅人も他の街道に比べれば少数でした)。
子供合埋碑は、宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在(死因のトップは肺結核で、死亡年齢はなんと20歳前後です)と、内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料として新宿区の文化財にも指定されています。
境内にある寛政12年(1800年)造立の旭地蔵は、明治12年の道路拡張で成覚寺に移設されるまで玉川上水北岸、甲州街道から天龍寺へ向う途中、玉川上水を渡る橋の北岸の旭町(現・新宿4丁目)にあった地蔵尊。
台座(蓮座と反花の間)に刻まれた18名の戒名のうち、7組の男女は玉川上水で心中した情死者だと推測されています。
隣接して奪衣婆(だつえば=三途の川のほとりで死者の衣類をはぎ取る恐ろしい老婆)像で知られる正受院(しょうじゅいん)があります。
ちなみに「投込寺」と称されたのは、内藤新宿の成覚寺(浄土宗)のほか、吉原に近い三ノ輪の浄閑寺(浄土宗)、品川宿の海蔵寺(時宗)があり、往時の歴史を今に伝えています。
成覚寺 | |
名称 | 成覚寺/じょうかくじ |
所在地 | 東京都新宿区新宿2-15-18 |
電車・バスで | 東京メトロ・都営地下鉄新宿三丁目駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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