天王寺・五重塔跡

天王寺・五重塔跡

東京都台東区谷中7丁目、谷中霊園内にあるのが、天王寺・五重塔跡。寛政3年(1791年)に再建された天王寺五重塔は、戊辰戦争の戦火を免れたのですが、昭和32年7月6日に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末を題材にしたものです。

昭和32年、谷中五重塔放火心中事件で焼失

天王寺・五重塔跡

天保4年(1833年)に長耀山感応寺から護国山天王寺と山号寺名を改めた天王寺は、江戸時代には富突(富くじ)の興行が許された名刹。現在の谷中霊園一帯も天王寺の境内地だったのです。
都立谷中霊園も江戸時代には天王寺の墓地(徳川将軍家の墓地は寛永寺墓地)で、中央の園路は天王寺の参道の名残りです。

五重塔が創建されたのは、江戸時代初めの寛永21年(1644年)。
明和9年(1772年)、目黒・行人坂の大火で焼失し、寛政3年(1791年)に再建された五重塔は、廃仏毀釈の荒波で、境内が谷中霊園になってからも谷中のランドマークとして聳え立っていました(明治41年に東京市に寄贈)。

焼失前の五重塔は総欅造り(そうけやきづくり)で、高さ11丈2尺8寸(34.18m)。
関東では一番高い塔だったのです。

そんな素晴らしい塔も、昭和32年7月6日、都内の裁縫店に勤務していた48歳の男性と21歳の女性が、不倫関係の清算を図って火を放って心中するという事件で、焼失。

谷中霊園の五重塔跡には、方3尺(90cm四方)の中心礎石、四本柱礎石など総数49個の花崗岩製礎石が現存し、東京都の史跡に指定。
焼け跡の中心礎石から金銅舎利容器(こんどうしゃりようき)、銅経筒(どうきょうづつ)、四本柱礎石と外陣(げじん)、の四隅柱からは銅経筒などが発掘されています。

放火で焼失してしまった五重塔ですが、焼け残った五重塔の下層の木材を再生して、昭和36年に天王寺の毘沙門堂が建立されています。

天王寺は谷中七福神の毘沙門天として江戸時代から名高い寺でもありましたが、毘沙門天像の尊像は、戊辰戦争(上野戦争)の際には吉祥天、善膩師童子(ぜんにじどうじ)の脇侍とともに四谷・安禅寺(現・東京都新宿区愛住町)に避難していたため、戦禍を免れて現存しています。

天王寺・五重塔跡
『江戸名所図会』に描かれる感応寺(天王寺)境内と五重塔
天王寺・五重塔跡
名称 天王寺・五重塔跡/てんのうじ・ごじゅうのとうあと
所在地 東京都台東区谷中7-9-6
関連HP 台東区公式観光情報サイト
電車・バスで JR・京成電鉄日暮里駅から徒歩4分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
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天王寺

天王寺

東京都台東区、谷中墓地の一画、JR日暮里駅近くにある天台宗の寺が天王寺。鎌倉時代後期、土豪関長耀が当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を結んだのが始まりで、江戸時代に輪王寺宮公弁法親王を願主に、5代将軍徳川綱吉を大檀那にして天台宗に改宗。

谷中霊園・高橋お伝の墓

谷中霊園・高橋お伝の墓

東京都台東区谷中7丁目、都立谷中霊園の一画、甲2号1側にあるのが、高橋お伝の墓。高橋お伝は、仮名垣魯文(かながきろぶん)の『高橋阿伝夜刃譚』のモデルで、明治の毒婦として世に知られています。明治9年9月9日、殺人容疑で逮捕され、死刑判決により

谷中霊園

谷中霊園

東京都台東区谷中7丁目、JR日暮里駅の西側、約10haという広大な敷地を有する都立霊園が、谷中霊園(やなかれいえん)。かつては天王寺(江戸時代後期までは感応寺)境内の一部で、明治7年に東京都の管理となり、今は約7000基の墓がある一般墓地と

天王寺・五重塔跡

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