西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の山の寛永寺。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地に建っていましたが、幕末の上野戦争で焼失。現在地に移転再建されています。
往時の境内の10分の1となった寛永寺の中心となる堂
寛永2年(1625年)、寛永寺の創建時に建立されたのは、本坊(貫主の住坊)で、これは現在の東京国立博物館の地。
寛永4年(1627年)に、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立され、最後に建立されたのが元禄11年(1698年)の根本中堂です。
『常憲院殿御実紀』、『徳川十五代史』によれば、東叡山中堂(寛永寺根本中堂)の造営は、5代将軍徳川綱吉の代で、柳沢吉保が惣奉行を拝命し、元禄10年(1697年)5月23日に始まり、元禄11年(1698年)2月9日に「東叡山中堂柱立」。元禄11年8月11日に上棟式が行われ落成しています。
そんな根本中堂をはじめ、東叡山寛永寺の大伽藍は、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、彰義隊が上野の山に立て籠もり、官軍に対して抵抗を試みた上野戦争で焼失、荒廃。
現存する根本中堂は、明治12年、川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現・寛永寺)の地に移築再建されたもの。
つまり、現在の寛永寺は、往時には子院のひとつ、大慈院の敷地というほどに狭められています。
明治維新の廃仏毀釈の中でも寛永寺に対する弾圧は厳しいものがあり、広大な寺地は現在の上野公園に転じ、寺自体も明治12年になってようやく再建が認められたのです(明治12年頃には新政府の態勢も整い、旧幕府勢力による転覆の企ての恐れもなくなったと判断できます)。
ちなみに幕末に蟄居した最後の将軍・徳川慶喜は、大慈院の葵の間で暮らしています。
寛永寺根本中堂の本尊は、最澄(伝教大師)自刻と伝わる薬師瑠璃光如来像(秘仏)で国の重要文化財。
毎月12日が本尊・薬師如来の縁日です。
絵図に見る寛永寺根本中堂
文政3年(1820年)頃の寛永寺の境内。現在の上野公園全体が寛永寺の境内で、現在の10倍の面積を誇っていました。北斎&広重 浮世絵に見る寛永寺根本中堂
浮絵とは西洋の遠近法を取り入れ描かれた空間の奥行や距離感を強調した絵で、くぼみ絵とも呼ばれていました。
初代広重の描いた寛永寺の境内。天保年間(1830年~1844年)刊。
寛永寺根本中堂 | |
名称 | 寛永寺根本中堂/かんえいじこんぽんちゅうどう Konponchudo(Main Hall),Kaneji Temple |
所在地 | 東京都台東区上野公園14番地 |
関連HP | 寛永寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR上野駅から徒歩15分 |
ドライブで | 首都高速上野ランプから約1km |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 寛永寺 TEL:03-3821-1259 |
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