河竹黙阿弥住居跡

河竹黙阿弥住居跡

河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やしました。明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。浅草・仲見世の仲見世会館入口脇に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が立っています。

4代目市川小團次の人気を支えた河竹黙阿弥の浅草の宅跡

日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の次男に生まれた黙阿弥ですが、14歳で道楽が過ぎて親から勘当され、貸本屋の手代となります。
読書三昧に明け暮れ、「芳芳」の雅号で狂歌や俳句の道に進み、天保6年(1835年)、五代目鶴屋南北の門下に。

さらに2代目河竹新七(かわたけしんしち)を襲名し立作者となり、嘉永4年(1851年)には河原崎座の顔見世狂言『升鯉滝白籏』を書きます。
天保14年(1843年)、天保の改革で水野忠邦(みずのただくに)から江戸三座が浅草猿若町に移転するのを機に、黙阿弥も芝から浅草・正智院の地内に居を移しています。
江戸時代には、雷門と仁王門(現・宝蔵門)の間には、浅草寺の子院がたくさん並んでおり、正智院もそのひとつでした。

この浅草時代に、4代目市川小團次(いちかわこだんじ)のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)が大当たりとなり、黙阿弥の出世作となりました。
黙阿弥は、泥棒が登場する「白浪物」(しらなみもの)を得意とし、江戸の庶民生活をリアルに描きながらも、七五調のせりふや清元(きよもと)などの音楽を効果的に織り込みました。
『三人吉三廓初買』(さんにんきちさくるわのはつがい)など市川小團次のために書く新作世話物は次々にヒット。
市川小團次没後も人気は衰えませんでした。

正智院の地内(じない)に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようにもなり、黙阿弥に頼めばヒットするということで、引っ張りだこになったのです。
明治維新後もその筆は衰えず、多くの作品を残しています。

明治維新後、神仏分離、廃仏毀釈などもあり、浅草寺の広大な寺地のかなりの部分は、公園などに変わり、さらに東京府は、奥山にあった見世物小屋や店舗を強制的に移転させ、仲見世は、木造平屋の店舗から、耐火性のある煉瓦造り2階建てに建て替えることに決定。

「いよいよ奥山七月三十日までに埋立地へ立退きを、区役所より言いつかり、一同大よわり、猶々人気(ひとけ)落ち、淋しくなり候、仲見世二十軒の辺は残り候えども、二年の内に塗屋を煉瓦に建てなおせという言いつけ、我らのところは先ず無事なれど、いずれへか転住いたしたき積り」という書簡を弟子に送り、明治17年に本所双葉町(現・東京都墨田区亀沢2丁目11−11)に転居します。

本所双葉町では、6年ほど暮らしますが、明治26年1月22日、脳溢血のため76歳で没しています。
本所双葉町の旧居跡には、「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建てられています。

河竹黙阿弥の墓があるのは源通寺(東京都中野区上高田1-2-7)。
明治41年に浅草から上高田に移転し、黙阿弥の墓も移されています。

 

河竹黙阿弥住居跡
名称 河竹黙阿弥住居跡/かわたけもくあみじゅうきょあと
所在地 東京都台東区浅草1-36-4
電車・バスで 東京メトロ銀座線浅草駅から徒歩3分
ドライブで 首都高速駒形ランプから500m
駐車場 台東区雷門地下駐車場(200台/有料)などを利用
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

仲見世

2017年12月19日
 

河竹黙阿弥住居跡

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