東京都文京区本郷、東京大学本郷キャンパスにあるのが夏目漱石の長編小説『三四郎』のモチーフとなった三四郎池。東大本郷キャンパスは、江戸時代には加賀藩上屋敷だった地で、三四郎池もかつての大名庭園「育徳園」の一部。正式名は育徳園心字池ですが、漱石の小説の影響で三四郎池と通称されるようになりました。
将軍の御成を前にして築庭、修造された江戸の名園の名残
1615(慶長20)年、大坂夏の陣の活躍で、加賀藩第2代藩主・前田利常(前田利家の四男)に家康から与えられたのが本郷の土地。
庭園が築かれたのは、1629(寛永6)年のこと。
前田利常の正室は、徳川秀忠の娘・珠姫。ということもあって将軍御成に備えての築庭だったのは明らかです(将軍・徳川家光は、前田利常の義弟)。築庭当初に徳川秀忠、徳川家光が相次いで屋敷を訪ねています。
1638(寛永15)年には、将軍・徳川家光が再度の御成があったため、庭の大修築を行なっています。
4代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)がさらに手を入れて、加賀百万石の名に恥じない江戸諸侯邸の庭園中第一という名園が誕生しました。
育徳園と命名したのも綱紀です。
加賀藩が蓄財をしすぎると、幕府転覆を画策しているのではないかと謀反を疑われるため、庭園にも資金を投入したのだと推測できます。
毎年6月1日、将軍家に献上するための氷を貯蔵する「氷室」も園内に築かれていました。
螺旋状の登り道のある築山のサザエ山は、比高6mほどで、頂からは江戸湾や富士山を眺望しました。金沢兼六園のサザエ山を模したものです。
1689(元禄2)年には第5代将軍・徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、栄華を極めています。
小説『三四郎』で心字池が「三四郎池」に
明治維新で官有地となり、明治9年に東京医学校が本郷に生まれ、翌年、東京医学校と東京開成学校が合併し東京大学が誕生します。
東京大学の医・法・文・理・工それぞれの部局の配置は、加賀藩時代の敷地の構造に則っています。
大学の拡張とともに、明治時代にはサザエ山も削られ、三四郎池の北東部に位置していた氷室も姿を消しました。
そんな東京大学の拡充の中で、聖地として残されたのが三四郎池で、漱石もそこに目をつけました。
朝日新聞に明治41年9月1日〜12月29日に連載された長編小説『三四郎』。田舎から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流を経て成長する過程を描いたもので、連載翌年の明治42年5月に春陽堂から刊行。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つです。
「それから、この木と水の感じ(エフェクト)がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る」(夏目漱石『三四郎』)
関東大震災で、防災面からも三四郎池が評価されました。
実は、江戸時代に度重なる大火から防災目的での池泉の活用はあったと推測され、単なる観賞用だけでなく、いざという時の消化と避難場所という役割をも担っていたことが、震災を経て認識されたのです。
切絵図に見る 加賀藩前田家上屋敷(三四郎池)
三四郎池(東京大学) | |
名称 | 三四郎池(東京大学)/さんしろういけ(とうきょうだいがく) |
所在地 | 東京都文京区本郷7-3-1 |
関連HP | 東京大学公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ東大前駅、東京メトロ・都営地下鉄本郷三丁目駅から徒歩10分 |
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