東京湾の最奥に位置する東京港。江戸の昔から港があったと思ったら大間違いで、実は、関東大震災まで港らしい港はなかったんだとか。そんな東京港のルーツといわれるのが日の出ふ頭です。
江戸や東京には港がなかった!
ペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853年)6月。その直後の8月に徳川幕府は品川台場の築造に着手していますが、このとき、江戸に湊はありません。
江戸の町は実は縦横に運河を巡らせた水の都。
「五万石でも岡崎様は城の下まで船がつく」(江戸時代後期に流行した小唄)と唄われた岡崎城(徳川家康出生の城)も、矢作川の舟運を巧みに利用していました。
徳川家康が隠居用の城として西国を睨んで築いた駿府城(現在の静岡市街の中心にある駿府城公園)も築城にあたっては、清水湊と結ぶ運河を掘削しています。
江戸の町も小名木川などの運河を掘削していますし、水上交通網の確立と洪水防止の一石二鳥を狙って利根川の流路を変える利根川東遷工事にも着手しているのです。
そんなこともあって、江戸の町は張り巡らされた運河で物資を運んでいたのです。
東京港築港が初めて提案されたのは、明治13年
「東京に港を築こう」と東京港築港論を最初に提唱したのは、明治13年。鳥取藩出身の第7代東京府知事・松田道之。
残念ながら東京築港は、横浜商人の猛烈な反対にあい、松田道之も明治15年に病没したこともあって、明治18年廃案に。
この後長らく頓挫するも、明治36年、東京港調査事務所工務課長・直木倫太郎が、欧米の視察の結果、深水港をもつことが、東京を発展させる最大の事業であることを記した「東京築港二関スル意見書」)を、時の尾崎行雄市長に提出。
しかし、これも実ってはいません。
東京港開港には横浜が市民あげての大反対
大きく前進したのは、皮肉にも大正12年9月1日の関東大震災です。
救援物資の水揚げ等にも港がなくてはどうにもなりません。
大震災を契機に品海築港計画(品海=品川の海の意。当時は品川湾とも呼ばれていました)は初めて軌道に乗り、大正14年に日の出ふ頭が完成します。
そして最初の上屋を構えた近代的なふ頭として、翌大正15年3月に供用が開始されます。
大震災後の舟運を利用した物流は、鉄道にも及び、万世橋(秋葉原駅)たもとにある船着き場も昭和5年に開設されているのです。
日の出ふ頭にも昭和5年、東海道本線の貨物支線として芝浦臨港線が開業(昭和60年廃線=後に跡地に沿うようにゆりかもめが建設)。
昭和7年に隣接する芝浦ふ頭が完成。現在のレインボーブリッジの付け根のふ頭です。
そして昭和9年に竹芝ふ頭完成します。こちらは現在、小笠原や伊豆諸島への貨客船が出航するふ頭です。
それでも横浜の反対は根強く、満州事変の勃発など、戦時色の強まりが追い風となって、昭和8年2月18日に「築港施行具體案」が決定します。
「港灣局の幹部は横濱を歩けない」と新聞が書くほどの徹底した反対運動で、昭和15年12月8日、「開港反對横濱市民大會」が開催、さらに続いて區民大會、縣民大會と、当時の世相を賑わす大事件となったのです。
それでも戦争に突き進む世論と世相は東京港開港に味方し、
「昭和16年5月20日に念願の開港が実現しました」(東京都港湾局)というように、東京港の公式な開港(国際港としての開港)が実現します。
それは、なんと太平洋戦争開戦の直前のことだったのです。
歴史ある3つのふ頭の今
日の出ふ頭(大正14年完成)=延長564m、水深6.7m、H~Mの6バース。震災時の帰宅困難者や救援物資の輸送拠点となる震災時水上輸送基地に指定。東京都観光汽船、クルージングレストラン「シンフォニー」を運航するシーライン東京が利用。客船ターミナルがあります。
芝浦ふ頭(昭和7年完成)=延長879m、水深2.7m~7.5m、内貿雑貨のB~Gと東海汽船のS2・S3バース。
竹芝埠頭(昭和9年完成)=延長465m、水深7.5m、総トン数5000トン級に対応のN、O、Pの3バース。東海汽船、小笠原海運の高速船、貨客船、東京ヴァンテアンクルーズが出航。客船ターミナルがあります。