神楽坂・本多横丁

神楽坂

東京都新宿区神楽坂3丁目、神楽坂最大の横丁、最も賑やかな横丁と称されるのが、本多横丁。表通り(神楽坂)を歩くだけでは見逃してしまいますが、50軒以上の店舗が軒を連ねる、最大の「盛り場」が本多横丁です。本多とは、旗本・本多対馬守の屋敷があったことに由来する名称。

本多修理屋敷脇横町通リが本来の名称

神楽坂
『江戸切絵図』に見る本多横丁

本多対馬守というのは、9000石の大身旗本で(1万石以上だと大名)、戦国時代の伊奈城主・本多家の分家(伊奈城=現・愛知県豊川市伊奈町にあった中世城館で伊奈本多氏の居城)。
幕末には1万500石の大名となり、三河国・西端藩(にしばたはん/現・愛知県碧南市湖西町周辺)の藩主になっています。
藩主は参勤交代を免除され、旗本時代同様に江戸に定住することが許されましたが、代々の屋敷があったのが神楽坂。

本多家はもともと、酒井忠次(家康第一の功臣で、徳川四天王のひとり)の次男・本多康俊を養子に迎えた三河以来の旗本の家系。
神楽坂一帯を整備したのは、牛込地区に若狭小浜藩主で大老・酒井忠勝(さかいただかつ)が下屋敷を拝領、3代将軍・徳川家光が足繁く通ったから。
こうした三河時代からの酒井家との関係もあって、神楽坂に屋敷を構えたのかもしれません。

現在の神楽坂の地図に当てはめると、神楽坂の善国寺下から北に伸びる三年坂と呼ばれるのが本多横丁。
本多横丁の東側に本多対馬守の屋敷地があり、本多修理(ほんだしゅり)屋敷脇横町通リと呼ばれたのが野の由来です。
そして神楽坂を開いた酒井若狭守の屋敷地は、神楽坂の坂上に。
毘沙門天で知られる善国寺も、寛政4年(1792年)神楽坂の寺町に移転してきた寺で、
寺町も形成され、江戸城の外郭防備の役割を担っていました。

現在の本多横丁にはフレンチの名店「ルグドゥノム ブション リヨネ」などフランス料理、スペイン料理などの店もあり、ランチ、ディナーにも絶好です。

神楽坂
歌川広重『東都坂尽 牛込神楽坂之図』、左に見える武家屋敷が本多屋敷か?
神楽坂・本多横丁
名称 神楽坂・本多横丁/かぐらざか・ほんだよこちょう
所在地 東京都新宿区神楽坂3丁目
電車・バスで JR・東京メトロ飯田橋駅、東京メトロ神楽坂駅、都営地下鉄牛込神楽坂駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
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