浅草見附跡

浅草見附跡

東京都台東区浅草橋1丁目、JR浅草橋駅の南西、神田川(江戸城外濠)に架かる浅草橋の北詰め、浅草橋公園一帯が、浅草見附跡(あさくさみつけあと)。江戸城外郭にあった36の城門、江戸三十六見附のひとつで、浅草寺へと通じる道、そして水戸街道への入口を守備する城門でした。

浅草、水戸街道の玄関口を守備する城門

現在の浅草橋は国道6号の橋ですが、往時も水戸を経て奥州へと通じる水戸街道の要衝。
江戸〜水戸〜仙台を結ぶ街道で、奥州街道の混雑を避け参勤交代する奥州街道筋の大名も多かったことで、江戸城の外郭を守る城門としても重視されていました。

浅草見附と称されるのは、浅草にあるからではなく、浅草への入口ということ。
枡形の門は「浅草御門」と称されていました。
寛永13年(1636年)、福井藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ=徳川家康の孫、3代将軍・徳川家光の従兄)が初音森神社の旧社地(境内地の半分が門の用地に転用、明暦の大火後、現社地に遷座)を利用して外郭城門を構築しています。

「浅草見附 栄螺(さざえ)なら 蓋のとこ」と川柳に詠まれたのは、江戸城の濠が、浅草橋から外堀(神田川)が反時計回りに巡らされているような形状のため、サザエに例えて、蓋のところだといっているのです。
その意味では江戸城外郭最東端の城門で、隅田川にも近接ということに。

渡櫓門外の両国西広小路には、江戸市中の六高札場のひとつ、浅草御門の高札場(こうさつば)もあり、人の流れの多かったことも明らかです。

明暦3年(1657年)、明暦の大火で、猛火が伝馬町牢屋敷を襲い、牢奉行・石出帯刀(いしでたてわき=石出吉深)はとっさの判断で、死罪の者も含めて数百人の囚人を解き放ちましたが(「切り放ち」)、浅草御門は逃走を防ぐために番兵が城門を閉鎖。
猛火から逃れる江戸の庶民たちが殺到、外濠(神田川)に飛込むという悲惨な状況が生まれています。
当時、隅田川には橋がなく、この悲惨な事件で2万人もの命が失われたといわれ、その反省で万治2年(1659年)「両国橋」が架橋されています。

ちなみに浅草橋という名は、浅草御門橋が転化したもの。

浅草見附跡
名称 浅草見附跡/あさくさみつけあと
所在地 東京都台東区浅草橋1-1
関連HP 台東区公式観光情報サイト
電車・バスで JR・都営地下鉄浅草橋駅から徒歩2分
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浅草見附跡

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