東京都千代田区、日比谷公園の銀座側にある有楽門・日比谷公園前交番近くにあるのが、日比谷見附跡。江戸城外郭城門、江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)のひとつで、堅牢な枡形門が築かれています。横にある心字池は、なんと石垣の西側にあった中濠の一部を池にしたもの。
日比谷入江の埋め立て後に構築された城門の石垣

日比谷見附(日比谷御門)は、高麗門(こまもん)、枡形(ますがた)、渡櫓(わたりやぐら)、番所がありましたが、枡形の日比谷濠側(江戸城の内濠)には仕切り(土塁・石垣)がなく、いざというときには、枡形から日比谷濠へと敵兵を落とすという構造でした。
明治初期にお役御免となって明治6年に破却され、現在では石垣の一部のみが残るのみです。
現存する日比谷見附(日比谷御門)の石垣も、晴海通り上にあったものを明治43年の道路(晴海通り)敷設で、日比谷公園の有楽門内に移設したもの。
一帯は日比谷入江と称する入江で、入江を埋め立て、濠と外郭部分を構築しています。
徳川家康が慶長8年(1603年)、江戸に幕府を開くと、慶長9年(1604年)、江戸城築城の諸大名に天下普請(てんかぶしん)を命じています。
江戸城は、太田道灌時代の城を拡幅し、本丸、二の丸、三の丸を本城に、西の丸を築きます。
さらに日比谷入江を埋め立てて、周囲の土地(外郭など)を確保しています。
現在の皇居外苑(往時の西の丸下)も埋め立て前は海だった場所です。
日比谷濠や馬場先濠は、日比谷入江の海を埋め立て時に、濠部分をそのまま埋め立てずに残したもの。
慶長19年(1614年)、熊本藩主・加藤忠広が周囲の石垣を築き、寛永5年(1628年)、仙台藩主・伊達政宗が日比谷見附(日比谷御門)の石垣部分を構築しています。
有楽門を入ってすぐのところにある心字池は、内濠から山下御門(現・帝国ホテルタワー館横)の先にあった外濠につないだ中濠の跡。
中濠は明治32年頃、東海道本線のすぐ東側にあった外濠も明治33年に埋め立てられ、現在は首都高速が通っています。
心字池沿いの石垣は、江戸城外濠の日比谷御門と山下御門の間の石垣ということに。
日比谷公園を設計したのは、「日本の公園の父」といわれ、国立公園の誕生にも尽力した本多静六。
風景を活用するという発想は、この日比谷公園にも活かされているのです。

| 日比谷見附跡 | |
| 名称 | 日比谷見附跡/ひびやみつけあと |
| 所在地 | 東京都千代田区日比谷公園1 |
| 関連HP | 東京都公園協会公式ホームページ |
| 電車・バスで | 東京メトロ・都営地下鉄日比谷駅からすぐ。JR有楽町駅から徒歩3分 |
| ドライブで | 首都高速霞が関ランプから約1kmで日比谷駐車場入口 |
| 駐車場 | 日比谷駐車場(465台/有料) |
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